星夜葛藤

1

 冬は嫌い。子どもの頃から好きだと思えたためしがない。そう零したら「おまえはまだ子どもだろう」と長谷部くんが冗談抜きの返事をするので、もともとの(うち)は彼を憎んでいたことを思い出す。

 どんな発言に対しても大真面目な回答の姿勢を崩さないところが、長谷部くんの長所であり短所だ。だから「ここに来たのも真冬じゃったもんね」と嫌味たらしく返してみると、苦虫を噛み潰した顔で「……すまない」と謝罪と共に白い息が吐き出された。ちょっとだけ情けない彼を見ることで、ようやく私の溜飲は下がって優しくなれる。

「寒いと気分落ち込みやすいんよね。霜焼けにもなるし。ほら見て、この真っ赤な指」

 彼の無防備な掌をとってこれ見よがしに絡めてみるけれど、長谷部くんは「これでは生活し辛いだろう」としかめ面で初心な反応は見せてくれない。姐さん芸者達の仕草だけ真似ても、一朝一夕で色気は身につかないらしい。そもそも霜焼けの指は色っぽくないか。

「今の長谷部くんの考えてること、当ててあげようか」
「……言ってみろ」
「『冷え性で寒がりなのに何で外で自主練してるんだ』、でしょ」

 肯定の代わりに沈黙が続くので、彼から手を放して帯に差していた扇子を開く。今日は晴れていて、わりあい気温も高いから気分はまだましだ。こうして傍には長谷部くんもいてくれることだし。

「ここから見る景色がね、通学路にちょっと似とるの」

 扇子をひらひらと回しながらそう言っただけで、ほんの一年ほど前の記憶が瞬きの内に脳裏を駆け巡る。たった一年で私を取り巻く環境は何もかも変わってしまった。あのときバレエのコンクールで踊るはずだったのは『ドン・キホーテ』のキトリで、振付の難易度そのものよりも小道具の扇子がうまく扱えずに苦労したのを覚えている。先生には踊りは及第点なのに扇子がゼロ点って笑われたっけ。今では商売道具でもあるからこの通り、身体の一部のように扱えるけれど。

「学校が山の上にあったけえね、屋上からは遠くの瀬戸内海が見えるの。晴れとったら水面がきらきら光って──通学路のすぐ傍にも大きな川があってさ。山を下りたら海はもう見えんのじゃけど、ああこの川は海につながっとるんじゃなあって。そう思うと安心した。水の流れていく先が行き止まりじゃないってことに」

 今日の稽古で覚えた振りをなぞりながら、思ったまま口に出しているうちに、以前同じ話を親友相手にもしたことをふと思い出した。あのとき私の言葉を聞いたあの子は、どんな反応をしていたんだっけ? 何も思い出せない。私の頭の中には他にもきっと、誰にも語らず思い出しもしないまま忘れていくだけの記憶が無数に眠っているのだろう。本当は何もかも取りこぼすべきではないのに。私が覚えていなければ、あの世界での出来事は全てなかったことになるのだから。

 十五の私は今の、半玉(芸者見習い)の私を見てどう思うだろうか。日常を壊されて、普通の人生を諦めて、長谷部くんに助けてもらった身一つで新しい名の人生を始めた私を生き汚いと罵るだろうか。死んでおけばよかった。あのとき母さんと一緒に死んでおけば。人生という舞台から降りておけば、これから先の未来なんて考えなくてもよかったのに、と。

(かずら)

 長谷部くんが私の本当の名前を呼んで、とりとめのない思考が遮られる。気がつくと彼は背に回り込み、落ちかけていたマフラーを整えてくれていた。こんなにすぐ身につけたものを乱すようでは、一人前のお墨付きをもらうまで道のりは長いだろう。

「だから、よだか。もう葛じゃないってば」
「──ああ、悪い」
「次やったらへし切って呼ぶよ」
「それはやめてくれ」

 へし切と呼ばれたくないという自分を棚に上げて、長谷部くんは私をすぐ元の名前で呼ぶ。いざとなれば棚ごと圧し切ってなかったことにできるだろう、なんて思っているのだろうか。これは意地悪な見方だけれど。

「置屋に戻るぞ。懐炉を買ってやるから、風邪を引かないよう身体を温めておけ」
「……はあい」

 釈然としないまま、返事だけは素直にして彼の後ろを雛鳥のようについていく。──そう、鳥だ。まだ雛であるにしろ、私はもう鳥になったのだ。地を這うつる草ではなく、花街で羽ばたく夜鷹に。

2

 生まれ故郷で珍しく雪が降ったあの日、目の前で母さんが串刺しにされたときのことを未だに夢で見る。たまに考え事をしているときも、不意にその瞬間がフラッシュバックして呼吸がしづらくなるときがある。

 父さんが消えた代わりに時間遡行軍を名乗る化物が次々に現れてから、この世界は瞬く間に壊れていった。踊ることと甘いものが大好きな、どこにでもいる中学生だった(うち)の日常は、彼らと刀剣男士の始めた戦争によって呆気なく砕け散ってしまった。

 そしてついには遡行軍も刀剣男士も、私のようなただの人間も関係なく殺して回る検非違使が現れて──暗い中凍った地面で転んだ私を庇って、母さんが大きな槍に貫かれて。そこでこの悪夢もようやく終わると思ったのに、私という意識はこうして無様に続いてしまっている。刃を鮮やかにきらめかせ、検非違使を瞬く間に斬り捨てた長谷部くんのせいで。

(………………星だ)

 刀のことを美しいと思ったのは後にも先にもあの一瞬だけだ。人の命を断つための形が、私から家族や友達を奪っていった道具が、私の命を護っている。その現実があまりに許し難いのに────冬の夜空に翳された星火のごとき輝きが、流星の尾のように弧線を描いた刀身が、私の瞳の焦点を狂わせた。

(一番、きれい……)

 物心ついたばかりの頃、連れられて見に行ったバレエの舞台で目の当たりにしたエトワールと同じ。一目見れば二度と忘れやしない。たとえこの先地獄に落ちたとしても。

『怪我はないか』

 血を浴びた刀身を腕で拭い鞘へ納めたあと、長谷部くんはまっすぐ私を見つめて手を差し伸べた。彼の姿に釘付けになった私は、足下にあった母さんの死骸を踏みつけ彼の手を取った。私を庇って死んだ母への恩を忘れ、弔いもせず、私を選んでくれた彼を欲した。それが私の犯した罪。永遠に濯がれることのない業だ。

 彼に保護され仮想備前にやってきて、悪夢やフラッシュバックに悩まされるようになって、私は次第に自分のしでかしたことが怖くなった。だから、最初はあんなに美しいと思った長谷部くんへ責任を転嫁することで、彼を憎もうとした。彼が母さんも助けていたならこんな風に苦しまずにいられた。そう信じ込むことで、ようやく呼吸が楽になれたから。

『俺は後悔しない』

 だけど、長谷部くんと再会して、彼に当たり散らしたとき。彼は随分と迷いながらも、あのときと同じく私の瞳をまっすぐに捉えてそう言い切った。

『任務を果たすこととおまえを救うことに矛盾はなかった。俺がおまえを救いたかった。悪いが、そこにおまえの意思は関係ない』

 ずるい。私の運命を勝手に変えておきながら、このひとは絶対に私のものにならないなんて。もう既に別の人のものだなんて、ずるい。そう思いながら私の口元は綻んでいた。納得したくないのに、感情だけは押さえつけられなかった。

 ────────それでも、私は選ばれたのだ。あの一瞬だけ、彼は私の星だった。
 それが嬉しくて、私はまだ生きている。

「──か。よだか、聞いてんの?」

 仕度の終わった美小夜(みさよ)姐さんが私の顔を覗き込むのに気がついて、やっと夢から覚める。どうやらフラッシュバックで倒れていたわけではないようでほっとした。「聞いとらんです」と正直に答えると、彼女は整った眦と唇を引きつらせて私を叱りつける。

「あのねえ、度胸と失礼をはき違えてるなって何度も言ってるでしょ。これからお座敷なんだから、ちゃんと集中して」
「はあい、ごめんなさい」

 美小夜姐さんは私より小柄で声もかわいらしいので、正直怒られても怖くない。舞の稽古をつけてくれるお師匠さんの方がずっと怖い。こう言うと私が姐さんのことを軽んじていると思われそうだが、そんなつもりは毛頭なく私は彼女を心から尊敬している。長谷部くんの手を取りこの街へやってきたけれど、芸者として私の道を示してくれたのは姐さんだからだ。

「こんばんは」

 三味線を携えた姐さんと他の芸者見習い達の後について座敷に上がると、姐さんの馴染み客である刀剣男士達が卓を囲っているのが目に入った。宗三さんに日本号さん、次郎太刀さん。けれど「お疲れさん」とラフに挨拶を返してくれる彼らの隣に、いつもなら連れてこられているはずの長谷部くんがいない。

「あれ、長谷部く……長谷部さんは?」
「悪ぃな。出陣が長引いてて置いてきちまった」
「えーほんま? せっかく新曲練習してきたのに」
「よだかぁ、せっかく来てくださったのに開口一番それは失礼でしょうが」

 わきわきと手を握ったり開いたりする姐さんから視線を逸らし「何でもありませえん」と嘯いて、すすと日本号さんの横に座る。本場の花街であったなら、きっとお座敷でこんな粗雑な振る舞いは許されないのだろう。だけど、元はというと私達は皆歴史から爪はじきにされた者の寄せ集めだ。進んで芸の道を選んだというより、この世界で生き残るために花街を選んだというのが実情だ。そしてここで生活する審神者や刀剣男士達からお座敷遊びの需要はあっても、仮想空間自体に伝統はない。故に言葉遣いも大して矯正されず、格式高い作法も存在しないのだった。

 皆で乾杯をして歓談に興じつつ、刀剣男士達が食事をとっている間に私達が舞や唄を披露するのが普段のお座敷での流れだ。三味線と唄を担当する地方(じかた)の姐さんと、舞を担当する立方(たちかた)の私達。一見して華やかで目立つのは立方だが、私達の舞は姐さんの奏でる音色や歌声あってこそ成り立つものだ。小夜啼鳥と名高い姐さんの名にちなんでつけられたのが、夜だか──私の芸名だった。その事実を思い出すたび今でも新鮮に嬉しくなる。自分の本当の名前は、あまり好きになれないから。

「よだかさんの舞は、素敵ですね。美小夜さんの妹らしいと思います」

 舞を披露し終えると、拍手のあと宗三さんが静かに微笑んだ。「ほんまですか」とはにかむと彼は頷いて手にしていた盃を卓に置く。

「舞と唄、分野は違いますが、お二人とも軽やかなのに苛烈なところもあって。……見ていると少し、眩しいです」
「ほんとにねえ。長谷部ももったいない、今夜この舞が見られずじまいなんてさ」
「えへへ、ありがとうございます。次は絶対来てってお願いしといてもらえます?」

 宗三さんに呼応する次郎太刀さんへ手を合わせると、「もちろんさ」と豪快な笑顔が返ってきて気持ちがいい。そのまま私と入れ替わりで、鶫美(つぐみ)姐さんが屏風の前に立った。つぐみ姐さんも私と同じく美小夜姐さんの妹だ。とはいえまだ見世出しして半年も経っていない私よりもずっと経験豊富で、衿替え、つまり晴れて来月半玉から芸者になることが決まっている。

「次はつぐみが『黒髪』踊ります」

 美小夜姐さんが紹介すると、きっちり正座したつぐみ姐さんが深々とお辞儀をする。それが舞始めの合図だ。一呼吸置いて三味線の弦がはじかれる。

『〽黒髪の 結ぼれたる思ひには──』

 夜に女が一人、髪を梳きながら愛しい男へ情念を募らせる。それが『黒髪』という唄の歌詞の内容だ。確か男には別に結婚しなくてはならない相手がいて、主人公である女とは結ばれない運命にある。男の立身出世のため自ら身を引いた女だが、心は嫉妬や後悔で燃え盛る。その二律背反な気持ちを表現できれば芸者として一人前だと、稽古で先生が言っていたっけ。

(好きなのに諦めるなんて、私にはできんなあ)

 恋らしい恋は今までしたことがないくせに、自分の普段の挙動を思うと、この唄の女と同じ行動は正直考えられない。ただ自分が一方的に想いを寄せているだけならまだしも、この男女はきっと互いに好き合っていたはずだ。その感情をなかったことにしてしまい込むくらいなら、死んでしまいたいとすら思うのは、私が世間知らずな子どもだからなのだろうか。

(……何でこんなときに思い出しちゃうんだろ)

 何故かふと瞼の裏に浮かんだ長谷部くんの横顔を、何度か瞬きを繰り返してかき消す。胸の中で燻っている彼への気持ちを、恋と名付けるには躊躇いがあった。恋ということにすると、これまで築いてきた彼との関係が壊れてしまう気がした。──あの美しい刀を自分だけのものにしたい。そんな身勝手な感情だけが溢れて止まらなくなる。長谷部くんを所有しているのは彼の(知らないだれか)に他ならないのに。私は、審神者にだけはなることができないのに。

『夕べの夢の今朝覚めて ゆかし懐かしやるせなや 積もると知らで 積もる白雪……』

 舞が終わって拍手が起こった。舞う中でついつい感情的になりがちな私のそれに比べると、つぐみ姐さんの舞には烈しさの中にも一本通った芯の強さを感じる。美小夜姐さんの唄に合わせると空気が変わる様がたまらない。

「あんたももうすぐ一人前か。見世だしした時と比べて見違えたな」
『ありがとうございます。日本号さんにそう言っていただけて光栄です』
「覚悟の決まった『黒髪』だったねえ」
『はい。自分の選んだ人生を後悔したくない、という気持ちで舞いました』

 つぐみ姐さんは喋りが不得手で、お客さまとは式神を介し宙に浮かぶ文字で会話する。本来芸者としては致命的な弱点だが、この街では大した障害にならない。

(うちの世界にもこれがあったら……なんて、考えてもどうしようもないか)

 自分の生まれた世界を否定されたショックは私にとって大きかった。長谷部くんに命を救われたことを受け入れはしたものの、あのとき素直に死んでおけばよかった、という思いが消えることはない。それでもまだこの街で生きているのは──多分、ここが思っていたよりも悪くない場所だったからだ。たとえ軟禁に近い条件付きの自由でも、私達はまだこの世界の片隅で人として生きている。足りないものを互いに補いながら、前を向くためにもがいている。そう感じられたからだと思う。

「将来が楽しみな妹ばかりで、美小夜さんも鼻が高いでしょう」
「あんまり褒めたらよだかが調子に乗るから、そこそこにしてくださいね」
「えーっ、うちは褒められて伸びる子なんじゃけど」

 美小夜姐さんへ口を尖らせて反論すると皆がそれぞれ笑って、私も肩を竦めた。お酒の席は好きだ。まだ飲める年齢ではないし、酒飲みの人間は普通甘いものが苦手だって言うけれど。うちは代々お酒に強くて身体も頑丈な家系だから、自分も例に漏れず酒豪になれる自信がある。たとえ生粋の甘党であってもだ。

(芸者になって、二十歳(はたち)になったら長谷部くんとお酒飲めるんだ)

 そのときはうんとお祝いしてもらおう。長谷部くんが好きな焼酎も気になるし、故郷で作られていたから日本酒も飲んでみたい。おつまみはチョコレートか、クリームチーズがいいな。そこまで考えて、いつの間にか自分が未来について無邪気に想像していることに気がつく。

(父さんのことは、忘れたのに? 親友のことは、もう思い出せないのに?)

 だから、私の罪は永遠に赦されないのだろう。いつだって形のない亡霊が私のあとを追いかけてくる。羽根が生えたって、この影から逃げることはできない。

3

 長谷部くんが非番の(うち)を訊ねて来たのは、それから一ヶ月以上過ぎた三月の昼下がりだった。

「最近、来てくれんこと増えたよねえ」

 時折冷たい風が吹くものの、気温は春めく街を散歩しながら文句を垂れてみる。こちらを見ずに「……色々問題が多くてな」と呟く様子からして、彼にも多少は罪悪感があるらしい。

「問題って何」
「機密事項だ」
「そういうことじゃなくって……まあええか。聞いてもようわからんし」

 日本号さん達が言うに、彼は本丸の中でも刀剣男士をまとめる立場にあるらしい。リーダーとかマネージャーとか、多分そういうやつ。見るからに仕事人間……いや人間じゃないから仕事男士? の彼のことだ。きっと色んな責任を背負い込んで大変なのだろう。だからといって、私をいつまでも放っておくのはやめてほしいけれど。

「埋め合わせには、おいしいスイーツ片っ端からおごってもらわんとなあ」
「はあ……相変わらずだな」

 私の甘党ぶりには若干辟易している長谷部くんを尻目に、街中の喫茶や雑誌で見かけた新作メニューを一つずつ思い出す。ここぞとばかりに桜風味の限定スイーツが目白押しの季節だ。とはいえ、今年は寒い日が続いたので桜が満開になるのはもう少し先だろうけれど。

「まずは絶対、藤居屋の桜抹茶クリームあんみつと桜ずんだクリームチーズパフェが食べたいでしょ。パティスリーnakataのミモザのケーキも食べたいしー、あとは喫茶浪漫の三色いちごのパフェも今月末で終了だからすべり込みで行っときたいんよね。他にも気になるお店が色々あって」
「おい待て、今言ったそれは今日全部食べる気か? 糖分ばかりを偏って摂取するのは身体によくない。今日食べるのは一つだけにしろ」
「えーっ、長谷部くんのケチ。お給料いっぱいもらっとるって宗三さん言いよったのに」
「ケチじゃない。あと給料の問題でも断じてない。おまえの健康のために言っている」
「うちは太く短く生きるの。だから今のうちに好きなものだけ食べとくのー」
「あのな……だめなものはだめだ。若い内からきちんと健康的な食生活に気をつけておかないと長生きできないぞ」

 道ばたの小石を蹴飛ばしながらふざけていても彼はそんな嘯きにさえ付き合ってくれない。彼のそういう冗談の通じないところが、やはり時折憎い。──そういう言葉は、正しい歴史で真っ当に生まれた人間にかけるべきだ。私みたいなはぐれ者が、ここで長く生きたところで何の意味もないのに。

 そこまで考えて、ふと長谷部くんが普通の人間より長くこの世にあることを思い出す。お客さんとして来てくれた刀剣男士達から聞くところによると、刀は若いものでも作られて200年、古ければ1000年以上経っているという。長谷部くんがいつの時代の刀かは知らないが、ということは彼も最低200年は生きているのだろう(見た目は新人の教師みたいなのに!)。刀は生物ではないので、生きているという表現が正しいかは置いておいて。

「長谷部くんは……うちが死んだら寂しい?」

 何気ない質問だったはずなのに、口に出してみると妙に特別に響いてしまったのは、長谷部くんが即答できず声を詰まらせたからだ。そこでようやく、これが彼自身の柔らかい部分を暴くような問いかけをしていることに気がつく。

「葛が死ぬところは、見たくないな」

 ごめん、と謝る直前で彼はそう言って目を細めた。まるで、何か眩しい星を見るみたいに。────嬉しさと同時に、きりきり胸が軋む音が聞こえる。私は星じゃない。あなたのようなうつくしいひとに、想ってもらうような人間じゃない。

「また葛って呼んどる」

 ばらばらになりそうな心を必死に抱えこんでそれだけ指摘すると、長谷部くんが「あー……」と失敗を悔やむ苦々しい表情を浮かべる。あ、チャンスだ。藤居屋のあんみつとパフェだけでも、今日おごってもらわなければ。なんて考えてしまう、食い意地の張った自分自身にすこし呆れてしまうけれど。

「でも、今日はその名前で呼ばなくちゃいけないだろう」
「え?」
「喫茶店で渡そうと思っていたんだがな。誕生日おめでとう、葛」

 そう言って長谷部くんは不意に、携えた信玄袋から小さな包みを取り出して寄越した。普段飾り気のない長谷部くんに似合わず丁寧にラッピングされている。そこでやっと、私は今日が自分の誕生日だったことを思い出した。

「────何で私より覚えとんの」
「むしろ何でおまえが忘れてるんだ。……それ、この間の店で見ていただろう」
「開けていい?」
「好きにしろ」

 押さえ付けた心が結局ばらばらに散らばるのを感じながら、私は彼からの贈り物を受け取って包装を解く。中には確かに、この前懐炉を買ってもらったときに気になっていた、香水瓶のネックレスが入っていた。

 嬉しかった。心から嬉しかったからこそ、辛かった。あのとき死んでいた方がよかったのに、いっそのこと生まれてこない方がよかったとすら思うのに、それでもこうして生き続けている自分を、まっすぐ長谷部くんに認めてもらえることが──どうしようもなく嬉しい。この歓喜をどうしても忘れることができない。

「…………ありがとう、長谷部くん……」

(あなたを産んだのは母さんなのに? おれらを忘れて、幸せになるつもり?)

 母さんや弟が絶対に言わない言葉を亡霊達が囁く。生きることは罰だ。生きている限りこの幻聴をかき消すことはできない。

4

 稽古とお座敷と、たまのお休み。その生活を繰り返してあっという間に十八になった。
 長谷部くんは相変わらず──いや、ますます忙しそうにしていたけれど、それでも律儀に顔を出してくれた。彼と一緒に過ごす時間は、いつまでも(うち)にとって特別であり続けた。長谷部くんのいるお座敷での舞には自然と力が入ったし、休日会った彼と他愛のないやりとりをしてめいっぱい笑った。時折言い争いになったりすることもあったけれど、今思えばそれすら幸せだったと思う。

 衿替えをしないかと言われたのは、小正月の明けた寒い日だった。冬は自然と気落ちして嫌なことばかり思い出す季節だけれど、こればかりはいい記憶として心に刻まれている。二つ返事で了承してからとんとん拍子に話が進み、来月、再来月の予定が正式に決まった。衿替え当日は、偶然にも私の誕生日だった。

「じゃけん、再来週は絶対来てよ」

 顔を突き出し目をかっ開いてがんを飛ばすと、長谷部くんは「わかったわかった」と引き気味に頷く。おやつを食べたあと、晴れているからと腹ごなしに散歩に来たものの、午前に比べて風が出てきて寒く感じた。かじかむ掌を吐息であたためながら、懲りずに彼を睨む。

「そう言って昨日のお座敷も来んかったのはどこの誰かねえ」
「昨晩のは正当な事情があったんだ。……詳しくは機密事項だが」
「もー、キミツジコーって聞き飽きた。約束すっぽかした時いっつもそれじゃん」

 そっぽを向くと、長谷部くんはうんうん唸っている。眉間に皺を寄せているのも、怒っているわけではなくただただ私というわがまま娘の扱いに困っているからだ。

(娘ってか、もうほんとに大人なのにな)

 口にしたらまたおまえは子どもだ、と言われてしまうだろうか? でも法律上はもう大人だ。ここに来たころと比べて顔つきが大人びたと姐さんに言われたし、芸者としても一人前になる予定が決まっている。そろそろ本当に大人として扱われていいはずだ。

 長谷部くんはきっと、私をまだ子どもだと思っている。……まあ、それは私も彼のそうした振る舞いに甘えている面があるから、単純に彼を責めることはできない。つい長谷部くん相手には、姐さんや置屋の皆相手とはまた違う意味で甘えてしまうのだ。皆には自分をよい風に見せたくて、ほんの少し格好つけてしまうときもあるのだけれど、長谷部くんにはどう思われるかなんてお構いなしに当たってしまう。それこそ、()()()()()()()()()()

(────────あ)

 とりとめのない思考が引き金となって、あのときの記憶がフラッシュバックする。

 違う。娘なわけがない。父さんは、時間遡行軍が現れた日に砂の柱となって消えてしまった。母さんは、私を庇って串刺しにされた。
 家族や友達がいなくなってしまったのは、時空を移動してやってきた彼ら──時間遡行軍、検非違使、そして刀剣男士のせいだ。その過去をなかったことにはできない。長谷部くんは私の家族にはなり得ない。

 私を護って、私以外のすべてを壊したひと。それがへし切長谷部だったじゃないか。

(忘れないで。私達を置いていかないで──)

「おい。顔色が悪いぞ」

 亡霊の声に引き摺られて固まっているうちに、長谷部くんが私の額に手を寄せていた。彼の掌のぬくもりに突然鼓動が早くなったが、それに声を上げる前に掌が離れる。

「熱はないな。大事な時期だろう、体調管理には気を遣えよ」
「わ……かってるよ」

 嘘。ほんとうはわからない。私自身がどうしたいのか。……それも嘘。感情だけは初めから答えを出している。だけどわかってはいけない。理屈でそれを肯定してはいけない。わかったら、きっと私は壊れてしまう。

「……葛?」

 何とか取り繕えたと思ったのに、こんな時に限って長谷部くんは何か勘づいたのか私の顔を覗き込もうとする。気がついてほしい時は気がつかないくせに。何でもない、と言うつもりが声が出ないまま黙り込んで目を逸らすと、冬晴れの空を反射して川の水面がきらきらと光るのが見える。気がつくと日が傾きかけていた。まだ夜になるには早い時間なのに。

(長谷部くんは──ずっと私の傍におってくれる?)

 何度か呼吸したあと、とっちらかった頭の中から拾い上げられたのは、そんなどうしようもない願いだ。その一言が、どうしても告げられずに息を呑む。
 傍にいてなんて言えない。長谷部くんは私の刀じゃない。長谷部くんを独り占めすることはできない。……審神者になって、彼を自分のものにすることも。それは亡霊の声に耳を塞ぐのと同じ。私が私の罪から目を背けるのと同じことだ。

「長谷部くんは──ずっと、あの時の長谷部くんのままでおってくれる?」

 だから、せめてもの祈りを口にする。星の光のごとき魂の輝き。私の命を救ってくれたときの、高潔な心をうつした彼の刃が、どうか永遠であってほしいと。

「俺はずっと、葛の知るへし切長谷部だよ」

 彼は私をじっと見下ろしたあと、脈絡のない問いかけの理由を聞かず静かに頷く。今までで一番優しい声だった。長谷部くんの声はビターなホットチョコレートみたいだと思う。私の甘党の舌には物足りないからこそ、際限なく欲しがってしまう。

「……なら、真っ先に私の一人前の舞を見ないとだめだよ」
「わかってる」
「長谷部くんがうちの知っとる長谷部くんなら、絶対見に来てくれるもん。──私の誕生日、祝いに来てくれるもん」
「ああ。約束だ」
「じゃあ、指切りして」
「構わない。……おまえ、まだ霜焼け治ってないのか」
「そうですけど文句ある!?」

 左手の小指を差し出すと、彼も同じように小指を絡めながら、私の紅く膨れた手を見て鼻で笑う。冷え性を馬鹿にするなと思いながら、私は長谷部くんと指切りをした。それは昔の遊女がやる心中立などではなく、子ども同士のおまじないのようにあどけない約束だった。

5

 十九の誕生日を迎えた朝は、珍しく夢を見なかった。体質もあって、ここに来てからすっきりと目が覚めることなんてほぼなかったのだけれど、(うち)の身体も空気を読むことを覚えたのだろうか。

 同室の子を起こさないよう部屋から渡り廊下に出て、硝子戸越しに外を見てみる。天気予報には夕方から強い雨と風に注意が必要とあったが、朝だからかまだ空に雨脚の気配はない。薄雲が空の全域を覆っているだけだ。

 仕度までまだ時間がある。硝子戸を引き、外履きに履き替えて単衣の袖口を握り込んだ。扇子は置いてきているが、人に披露するわけではないので素手のままでもいいだろう。美小夜姐さんを真似して口ずさみながら、今夜舞う『黒髪』の振りをなぞる。

『〽黒髪の 結ぼれたる思ひには──』

 もともと踊りが好きでバレエをやっていた分、初めは舞を究めることしか考えられなかったけれど、唄も気持ちよく歌えると楽しいということを最近になって思い出した。中学生のころはよくカラオケに遊びに行ってたんだっけ。当たり前のことだったから逆に今まで忘れていた。これから三味線も練習して、いつかは立方としても地方としても一人前になれたらいいのかもしれない。

『愚痴な女子の心も知らず しんと更けたる鐘の声──』

(恋、だったのかな。やっぱり)

 長谷部くんへの気持ちに名前をつけるのをずっと躊躇っていた。だけどそろそろ観念して、これが恋だったとみとめてしまおう。蹴りをつけるのは、一朝一夕では難しいけれど。彼と出会って四年もの間つのらせていた気持ちだ。下手をすればこの先何度も思い出しては苦しむのかも知れない。

 彼が欲しくてたまらなかった。ううん、過去形じゃない。今だって欲しくてたまらない。この手に掴めなければ、彼が与えてくれる愛には堪えられない。……でも、もういい。そう自分に宣言しなければ、これ以上前に進めない。

『夕べの夢の今朝覚めて ゆかし懐かしやるせなや 積もると知らで 積もる白雪……』

(──ああ。これが私の『黒髪』だったんか)

 以前はわからなかった、『黒髪』の女の心がようやくわかった。何も割り切れていなくても、今前へと進むこと。その先に待つのが苦しみだけなのだと知っていても。その苦しみに、いつか膝を折ってしまうのだとしても──今の私はこの道を選ぶ、と決めること。その選択で得る感情含めて、私は自分の生を肯いたい。道を選んだ後悔の方が、選ばず立ち止まった先で見つける後悔よりも、ずっと納得できると思うから。

(長谷部くんに、はよう見せたいな……)

 薄曇りの空を見上げて手を翳す。星はもう見えない。嵐が来るなら、夜になっても見えないままだろう。

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