名も知らぬあなたがこの手記を読む時、私は既にこの世にいないことでしょう。こうして羊皮紙に書き付けている間にも、病の影は私の肺を蝕んでいます。薬師の見立てでは、これからやってくる夏を越せるかどうかの瀬戸際と。故に私は書かねば――書き上げねばならぬのです。命の限り、命を賭して、四十年前に起きたあの惨劇について。
本来誰にも知られてはならぬことです。こうして書き残しておく意味も意義もありません。どうか読み終わったなら、紙片も残さぬよう焼き捨ててくださいまし。けれど、覚えていてほしいのです。忘れられてほしくないのです。名もなき愚かな處女が一人、この世で最も美しいあの方と共にあった記憶を。私達が一時の間でも共犯者となったこと、永遠に晴らすことのできぬ罪業を負ったことを。先に逝ってしまわれたあの方と同様、私もまたこれより地獄の門をくぐるであろうことを。

一体どこからお話しすればよいでしょう。あの方と過ごした一年間は随分と濃密で、退屈な人生の中で最も 赫 いていた夢のような日々でした。たとえそれが、月夜の光に返り血が照った故だとしても。
――それでは、あの方と初めてお会いした夏の話から綴りましょうか。十四歳を迎えたばかりの私は、そのとき生まれて初めて馬車に乗ったのです。
居城では自由に過ごすことができましたし、下男に教えてもらった馬に乗って野原を駆けることもありました。けれども遠出らしい遠出はしたことがなく、従って馬車に乗る機会もありませんでした。馬車の車輪が道の石礫につっかえ、その振動が体に伝わることすら新鮮で、付き添ってくれた下女達に何度もはしゃぎ話しかけたのをよく覚えています。
目的地には日が暮れる前に着くとのことで、私や下女達はカーテンの隙間より流れていく外の風景を眺めたり、午睡にかまけたりして過ごしました。と言っても、私はこれからの日々に胸を高鳴らせていましたから、殆ど眠ることはありませんでした。下女達の寝顔の向かいでお気に入りだった『薔薇物語』や、読みかけていた『神曲』の頁を捲りながら、まだ見ぬ貴人――目的地であるチェイテ城の女主人、バートリ=エルジェーベト様へと思いを馳せていたのです。
エルジェーベト様についてはズリンスキ=クリスティナ――歳の近い従姉妹であり、唯一の友人であった彼女の手紙より、様々な噂を耳に入れておりました。聞けば聞くほどうっとりと目を細めてしまうお話ばかりです。勇壮なる黒騎士と称えられたナーダシュディ=フェレンツ様と結婚なさった、我が国で随一の有力貴族バートリ家の才女。フェレンツ様が亡くなられた後も再婚せず、女だてらに領主を務められるかの貴婦人は、齢五十に届く今も時を止めたかのように美しい――そんな噂をクリスティナは手紙を通して生き生きと語ってくれました。
『あの名高いバートリ家の下で勉強できるのなら、あなたの持つ才知も無駄にはならないでしょう。奥方様に気に入られたなら、その縁故でサンドリヨンの如く玉の輿も夢ではないわ』
『その為にも、身の振り方には気をつけなさい。私は天真爛漫なあなたが大好きだけれど、好奇心ばかりで行動していてはだめよ。くれぐれも失礼のないよう、奥方様に倣って貴族としての振る舞いを身につけるのよ』
クリスティナとはこのように彼女がお姉様、わたしが妹のような関係を築いておりました。もし実の姉達も家を出ず、私と共にいてくれたなら、彼女と同じく目をかけてくれていたのでしょうか。私は姉達とは年が離れていた為、物心ついた頃既に全員が家を出て結婚しておりました。無知で物怖じしないが故に粗相をした幼い私を、いつも庇ってくれた明朗快活なクリスティナ。彼女も既に家を離れ、婚約者の居城で遊学兼花嫁修業に明け暮れています。一族の中で、私だけが未だ遊学先が決まらずにいる……そんな事情もあって、クリスティナは特に喜びと心配を寄せてくれたのでしょう。
遠縁にあたるエルジェーベト様の下で学ぶ許しが出るとは、それまで考えられなかった幸運でした。お父様に今後の処遇を言い渡されるまで、私はきっと修道院に入れられ、そのまま出家することになるのだろうとばかり思っていたのです。それはそれで、新たな場所での日々の楽しみをきっと見つけられる筈だと前向きに捉えておりましたが――チェイテへ行けば、修道院で過ごすよりもずっと見聞を広めることができましょう。お父様のご決断に感謝しなくては、と私は喜ぶほかありませんでした。
父はいつも、私に対して無関心を決め込んでいるように見えました。だからこそ私は父の見ぬ間に、貴族としての責務を背負うことなくのびのび育つことができたのですが。それでも心の端ではやはり、一抹の寂しさを感じずにはいられませんでした。母を知らず、兄姉達とは疎遠なまま。一人家に残され育った自分は、婚約者どころか遊学先すら決まっていない。孤独な日々を送る中、私は大好きな語学の勉強に明け暮れました。何百年も前、吟遊詩人達がラテン語で歌ったという恋の詩篇を紐解く度に、自分にはどんな素敵な運命が現れるのかと夢を見たものです。夢は夢でしかないのだとしても、そんな浪漫を想うことはやめられませんでした。家族の愛を知らぬ私にとって、恋とは大粒のサファイアやエメラルドの放つ輝きでありました。

そんな夢想に明け暮れる内に、がたんと車輪が一段と大きな音を立てて、車体がぐらぐら揺れました。居眠りしていた下女達も流石に気がついて「きゃっ」と声を上げます。私も驚いて、手すりに掴まりました。下女達が急いで窓から顔を出し、「何があったの」と御者に問うと、御者も困った顔でため息をつきました。
「車輪が壊れちまったみたいです」
「何ですって!」
「おまえ、それじゃあ私達はどう城へ行けばいいの」
下女のギゼラとゾフィアが御者のヤーノシュへまくし立てるのをいなし、私は思案しました。馬車を引いているのは二頭の馬です。私とヤーノシュが別々に馬に乗り、その後ろにそれぞれギゼラとゾフィアを乗せるのはどうかとすぐに思いつきましたが、二人は馬に乗ったことがありません。
「ヤーノシュ、城まであとどのくらい?」
「目と鼻の先ですよ。ほら、あの小高い丘の上に見えるでしょう」
御者の指さす方を眺めると、確かに少し行った先の丘陵の上に立派な石造りの城塞が聳え立っていた。カニジャイの居城より一回りも二回りも大きく見えるチェイテ城に圧倒されつつ、城から目を離して辺りを見回しました。
「もし! そこの人!」
「お嬢様、そんな大声を出すなんてはしたないですよ!」
「あなた達も同じくらい大きな声で叫んでたじゃない。もし、そこのおじさま! そう、あなたよ!」
私達の立ち止まった道より少し離れた場所で農作業をしていた小作人を見つけて、私は手を振りました。小作人の初老の男性は暫くしてこちらに気がつき、慌ててこちらへ走って向かって来ました。
「すいやせん、気がつくのが遅れてしまいました。ご無礼をどうかお許しください」
必要以上におどおどと腰の低い小作人に、私は首を振って「お願いがあるの」と申し出ました。
「私達はバートリ家の親類、カニジャイ家の者です。馬車の車輪が壊れてしまったようなの。城まで下女達が乗るための驢馬を二頭貸してくださらないかしら」
「りょ、領主様の……!」
小作人は奥方様の名を出すとすっかり動揺し、真っ青な顔で膝をつきました。そして「驢馬なんざ何頭でも差し出します。ですからどうか、お命だけは……お命だけは……」とぶるぶる背中を震わせるのです。気がつかないうちに酷いことをしてしまっただろうかと不思議に思いながら、私は彼を宥めて驢馬を連れてきてもらいました。
壊れた馬車から荷物を運び出して馬に乗せた後、私達は再び城へ向けて出発しました。城の門番や使用人達は驚いた様子でしたが、事情を説明するなり街の職人達を手配してくださいました。早々に修理させるとのことで、私と下女、御者の四人はそのまま城の中へと迎え入れられたのです。
使用人に先導されながら歩を進めると、八重のダリアが咲き乱れる美しい中庭が私を出迎えました。紅、白、紫を基調とした花冠が夕焼けの光に照らされて、瑞々しい花弁は一層輝いているように見えました。
「何て美しい庭……」
「ダリアは奥方様が最も好まれている花ですので、こうして庭いっぱいに育てているのです。ちょうどよい時期に来られましたな」
使用人に相槌を打ちながら、私は夢見心地で花々を眺めました。――だって、本当に夢のようでした。こんな美しい場所で勉強に励むことができるなんて、思ってもみなかった幸運です。故に、今見ている光景は短い夏、ダリアが咲いている間だけ見られる蜃気楼のよう――そう感じてしまったのです。

夕食の時間はすぐにやってきました。つまり、奥方様との対面です。失礼のないようにというクリスティナの言葉を胸に、私は奥方様が大広間に現れるや否や席を立ち、恭しく頭を垂れつつドレスの裾を上げてお辞儀をしました。
「お、お初にお目にかかります。カニジャイ家より参りました、ロレナと申します。私のような若輩をこうして手厚く歓迎くださり、心より感謝申し上げます」
顔を地面に向けたまま挨拶を口にすると、少しの間があった後くすくすと笑う声が聞こえてきます。気がつかないうちに粗相をしてしまったのでしょうか。小さく縮こまっていると、「顔をよく見せて」とヴィオラ・ダ・ガンバを思わせる低く深い声が優しく耳を撫でました。そうして恐る恐る面を上げると、――そこには凍り付いたような美が顕現していたのです。
身に纏うは深紅のドレス。透き通るまでに青白い膚を際立たせながら、絹糸に似たプラチナブロンドを垂らす、背の高い貴婦人。長く豊かな睫毛に縁取られた宝石の瞳、高い鼻筋に薄く品のある形をした唇が、計算し尽くされたかのような均衡を保っていました。……この方が、バートリ=エルジェーベト様。そう理解するまでに一体どれ程の時間がかかったのでしょうか。彼女はゆっくりと私の下へ近づき、優しく手を取ってくださいました。
「そんなにかしこまらないで頂戴。私、今日はあなたが来るのをとても楽しみにしていたのよ」
「わ……私も、毎晩エルジェーベト様にお会いする日を夢見ておりました……!」
「遠路はるばる来てくれて嬉しいわ。馬車が壊れてしまったようだけれど、職人達にすぐ直させますからね。ロレナは何も心配しないでいいのよ」
奥方様の手はそのまま私の髪の毛へと延びました。私は生まれつき癖の強い赤毛で、それに強く劣等感を抱いておりました。お姉様は皆父と同じブルネットなのに、何故私だけ赤毛なのだろう。それも、手入れしても言うことを聞かない頑固なうねり付きです。私も直毛がよかった、と何度も思ったものでした。ですが奥方様は私の髪を梳き、「何て美しいの」と一言呟かれました。
「赤毛を恥じることなんてないのよ、ロレナ。私の母も赤毛だったけれど、とても美しい女性だったそうなの。その話を聞く度に、私も赤毛だったらよかったのにと思ったものよ」
「そんな……! わ、私にはもったいないお言葉です。それに奥方様の御髪はまるで絹糸のようで……憧れてしまいます」
エルジェーベト様の思わぬ言葉に私は酷く動揺しました。クリスティナも私の髪の色だけは勿体ないと言っていたくらいなのです。引け目に感じていたこの髪を、美の象徴のような御方にお世辞でも羨ましいと声をかけてもらえることが――そのお心遣いがなんとも嬉しくて、私は少し涙ぐみながら返答しました。
「ふふ、褒め合っていては料理が冷めてしまうわね。遠くから旅をしてきて、さぞお腹が空いたでしょう。席に座りなさい」
奥方様は名残惜しそうに私の髪の毛から手を離して、上座に着かれました。私も用意された席に座し、程なくして奥方様の合図で食前の祈りが捧げられ、夕食が始まりました。そのとき食べたものは――子羊の肉や旬の野菜をふんだんに使った贅沢な料理だった筈ですが、よく思い出せません。あの方にかけてもらった言葉が宝物のように愛おしくて堪らなくて、そればかり噛み締めていましたから、肝心の食事について殆ど記憶に残っていないのです。
夕食の後も、用意された自室の寝台に身を任せながら、私はあの方のことばかりを考えておりました。噂は本当だった。いえ、実物は想像以上に――まるでピタゴラスの定理のようにお美しかった。そう反芻し、私は深く息を吐きました。
当時の私は、クリスティナを除けばの話ですが、本より与えられた知識こそが友人でした。自然の花々、生物の命の循環、数が編む星の道行き。本は人間同士の心の機微だけでなく、ただ生きているだけでは到底思いつかない事柄を何でも教えてくれます。ダ=ヴィンチのような天才を生んだフィレンツェでは――この手記を書く今も――新たな数学の研究や科学の発明が進んでいると聞き及びます。当時の私はその事実に感動し、未知なる「答え」へと思いを馳せておりました。
本来女に学は必要ないのだと、お父様はよく仰いました。それでも学べば学ぶ程に、主はたった一つの正解を、主しかご存知なかった美しい言の葉を、ちっぽけな自分にも教えてくださるのです。世間知らずの私にとって、正しいこととは美しいことでありました。
そしてエルジェーベト様が体現していた美とは、この思想の象徴。――私の未だ知らぬ定理によって齎された奇蹟のように感じられたのです。

それから私はエルジェーベト様を師と仰ぎ、それこそ本当に――初めて恋を知った少女のように、彼女に心酔するようになりました。
もちろんエルジェーベト様にとっては領主としての公務、つまり領地の管理や政治を取り仕切る役目が最優先です。従って、日々のレッスンでは専属の指南役に師事しておりました。
しかし、それでも余暇ができたときには顔を出してくださって、私の学んでいることについて――主に語学に関してお声がけくださいました。私も大好きな分野でしたので、いつも話が弾んだことを覚えています。
反して、所謂勉学に関係ない分野ではよくご迷惑をおかけしました。刺繍は手本さえあれば何とか、しかし調理は何度やっても失敗ばかり。けれど、後でこっそり奥方様が「私も家事は苦手なのよ」と耳打ちしてくださったことがあったのです。それを聞いた瞬間、この方が私と同様捏ねたパンを真っ黒に焦がす光景を思い浮かべて、堪らなくおかしくなりました。とても失礼な振る舞いでしたが――奥方様は恥ずかしそうに「秘密にしておいて」と人差し指を立て、唇を尖らせるだけでお許しくださいました。……ああ。何と他愛なく、かけがえのない記憶でしょう。
日々を送る内、短い夏と秋はあっという間に過ぎてゆき、冬支度をする頃になりました。南の地方の居城に住んでいた私は、チェイテ城がこんなにも冷え込むことに驚いたものです。
そんな晩秋の、二人きりで余暇を過ごしていたある日のことです。恐れ多くも奥方様の自室に招かれておしゃべりに花を咲かせている内、夜も更けてきたため自室へお暇しようとしたところ、不意に彼女に呼び止められました。
「ねえ、ロレナ。……寂しくはない?」
絹のネグリジェを纏った奥方様は、まるでおとぎ話に出てくる美しい王妃様の如き佇まいでした。そんな彼女に優しく抱きしめられ背を撫でられて、私は暫く声を出すことがかないませんでした。奥方様の体からは然程熱を感じられないのに、耳元にかかる吐息が酷く繊細で、扇情的で――当時の私はまだ理解できない情緒を孕んでいました。
「お父上から聞いたわ。私もあなたと同じで、物心つく前に母を亡くしているの。あまり考えないようにしていたけれど……母が生きていたらと思うことは、少なからずあったわ。ねえ、ここにいる間は私を母と思ってくれてもいいのよ」
奥方様は私の頬に手を添わせて、艶やかに微笑みました。その蕩けるような唇からほのかに葡萄酒の芳醇な香りが燻って、私は一瞬目が眩んでしまいます。
私は母を知りません。家族の愛を知りません。ですが、奥方様から感じた慈しみは何だか私の思う母性とは異なるような気がしました。だって――本当に奥方様が私のお母様ならば、こんなにも心臓が高鳴ることなどない。恋を知った物語の姫のように、居ても立ってもいられないような気持ちになることなどないはずだ。そう思ったのです。
「何かしてあげられることはない? 何だって叶えてあげるわ」
私は頬を赤らめながら、それでもあの方の蜂蜜のような甘い瞳から目を逸らせずに、暫し逡巡しました。黙っているうちにどんどん鼓動は加速して、エルジェーベト様にも聞こえるのではないかと心配してしまう程でありました。
「……おやすみのキスを、いただけませんか」
迷った挙げ句、そうねだった私に下心がなかったとは言い切れません。母が眠りに落ちるのを怖がってむずがる子を落ち着かせるように――ではなく。恋人同士が互いの熱を欲しがるようなキスを、私は無意識に求めていました。
そんな心を知ってか知らないでか、奥方様は私の髪をひと撫でして、「いいわよ」と、私の頬に軽いキスをひとつ落とされました。それでますます恥ずかしくなってしまって、私は俯き縮こまりました。どう表情を取り繕えばよいかわからなかったのです。そのまま無意識に唇を噛んでしまうと、丁度乾いてささくれていた唇の皮が剥けて、じわりと血が滲みました。
「あ……」
僅かな痛みと共に私の唇が紅く染まったのを、エルジェーベト様は見逃しませんでした。――まるでお人が変わられたかのように、蜂蜜色の眼を爛々と光らせて。そのまま、エルジェーベト様は私に口づけました。
当然、それは私にとって初めての口づけでありました。ついこの間までは修道院で出家する未来を想像していた身です。故に人々が情を交わす意味は知れど、試すことはおろか自分の身に起こり得るものと考えたことは一度もありませんでした。先程の色香にあてられて、無意識に下心を懐いたにも拘わらず――いざ彼女から行為に及ばれた瞬間、私は驚いて身じろぎもできず、ただ受け容れることしかできなかったのです。
「んっ……ふ、ぁん……」
唇と唇の隙間からだらしなく唾液が蜜のように湧き出るのを、ちうちうと舐め取られます。くすぐったくて思わず声を漏らすときゅっと、傷口に蓋をするように舌を押し当てられました。そのまま血を吸い出すように啄まれ、ゆっくりと余韻を残すように唇が離れていきます。
ちりりと感じた筈の痛みなどとうに忘れ去った頃、奥方様はうっとりと目を細めて呟きました。
「……だめよ、ささくれを剥いてしまったら。せっかくの果実のような唇が台無しになってしまうでしょう」
そう言って鏡台の棚より小瓶を取り出した奥方様は、瓶より香油を指に垂らして私の唇に塗りました。冷えた香油から儚い花の香りが揺蕩って、ふと意識が絡め取られそうになってしまいます。
それからどうやって部屋に戻ったか、今でもはっきりとは思い出せません。夢と現実の境が曖昧なまま、私はふらふらと廊下を伝い寝台に飛び込みました。毛布に包まり、先刻の記憶のかたちを反芻するように唇を撫でました。そうすると、未だあの方の濡れた唇が身体を這っている錯覚に陥ってしまうのです。
ああ――――もっと、あの唇が欲しい。
毛布が齎す微睡みの中、確かに私は彼女を欲望していました。そして――きっとこの時の口づけが、これから起こる重要な転機において、私の一番の標となったのです。なって、しまったのです。