
男主桜、キャスター CCCルートED後の話
朝の光の眩さに自然と瞼が軽くなって、軽く欠伸をしながら目をこすった。未だにぼんやりとしか像を結ばないものの、優しい紫苑色の髪がさらりと視界を遮る。
「あけましておめでとうございます、先輩」
何度か瞬きを続けているうちに白い指が伸びてきて、俺の額を優しく撫でる。その手つきと同じくらい優しい声を耳にして、俺はようやく目覚めた。「――うん。あけましておめでとう、桜」そう口にしているうちに、いつのまにか目は醒めていた。俺の顔を覗き込んでいた桜の顔には、いつもと同じ柔らかな微笑みが浮かんでいた。
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俺達二人が月の裏側から地上へと下りて数ヶ月が経過した。俺達は流れに流れて西欧財閥下の国へやって来て、霊子ハッカーとしての仕事を――俺はへっぽこなので主に桜が、だが――細々とこなしながら生活を営んでいた。そうして冬が訪れ、今日は一月一日。所謂お正月というわけだ。
だからといって何かが変わるということもない。ここが日本であるというのなら初詣に行くのが普通なのだろうが、既に日本という国はない。災害によって社会体制が崩壊し、都市部は壊滅状態に追い込まれてしまった。だから、日本らしい正月の文化――たとえば初詣なんかもここには存在しない。霊子虚構世界にアクセスすれば、電脳神社に参拝できないこともないそうなのだが、何故か桜はそれをよしとしなかった。桜はここ数日前から、やたらと初詣に対しこだわりを見せていた。
「やっぱり、お正月は初詣しないといけないと思うんです」
確かに、言われてみればそんな気はする。かたやNPC、かたやAI出身の俺達なので無論正月の経験など皆無だが、日本的な価値観はインプットされている。なのでとにかく、今日明日は日本の年末年始らしいことをやってみよう。そう示し合わせて俺達は年越しそばを食べたり雑煮やおせちを食べたり――主に桜のおかげで、食に関しては一通り正月らしいことを済ませられた。
だが、問題は初詣である。
「まあ、俺は桜といれたらそれでいいよ。わざわざ外に出なくても……」
おせちの重箱を洗う彼女の隣で食器拭きをしていると、桜は珍しくむっと眉を顰めて俺を見上げた。
「先輩ったら。そう言ってくれるのは嬉しいですけど、残念ながら違います」
「えっ。ごめん」
「もう、すぐに謝らないでください」
今日の桜は何だかいつも以上に強気だ。最近彼女の強かさに気がついてきた自分だったが、今回のはこれまでの比ではない。戸惑いながら皿を拭く手を止めると、彼女もまた蛇口を止めてこちらへ向き直った。
「先輩は……私達は、ちゃんと感謝しないと。だって、私達がこうしていられるのは……キャスターさんのおかげでもあるんですから」
――桜のその言葉にようやく納得がいく。まったく、これでは鈍いと言われても弁解のしようがない。
「ごめん、気がつかなくて。キャスターは確かに元は神様だけど……俺が一緒に歩んだのは玉藻の前としての彼女だったから」
もう隣にはいないあの子のことを思い出す。忘れもしない、明るい桃の髪に金色の瞳をした、太陽みたいな女の人。俺を何より尊び、背中を押して送り出してくれた人。月を離れてもなお、キャスターのことを忘れることはない。……記憶が奪われたとしても、忘れたくない。それが彼女だ。
キャスターは神様だ。だが、彼女は分け御魂であり、俺はそんな彼女の相棒だった。だから――その。ありがたく手を合わせて参拝する対象にあんまり見ていなかったというか。そう口にすると、キャスター本人からはちょっと不平を言われそうな気もするが。
「あ……そうなんですね。……ごめんなさい、私の方がお節介でしたか?」
自分の言葉に少し項垂れ気味の桜に、「桜は気にしないでいいんだ」と慌ててフォローに回る。確かに、桜がそう思うのも当然のことだ。彼女がいなければ、俺達はきっとここにいないのだから。
「でも……うん。この声がもしキャスターに届くなら、届かせたい。俺は桜と幸せだって」
そう言うと、桜は少しだけ顔を赤くして目を逸らした後、「先輩!」とこちらへ視線を向け直す。「何?」少しびっくりしながらも返事をすると、桜はぎゅっと目を瞑って声をあげた。
「初詣、しましょう!」
✦ ✦ ✦
そう言って、彼女が引き出しの中の紙を切り貼りして折ったのは鳥居の形。器用なものだと感心していると、彼女はそれを机の上に掲げて手を合わせた。
「――」
黙って目を瞑り、何事か祈っている彼女にならって、俺も手を合わせてキャスターの姿を思い浮かべる。
キャスター。この声は、君に届くのかな。きっと届くといい。俺は今、桜と一緒に細々とだけど、幸せに暮らしています。君がいないと……まあ、静かなんだけど、やっぱり寂しいかな。また君に会いたい。会える時は、来るのかな。
瞬間、脳裏にあのノスタルジックな旧校舎が浮かぶ。桜の木が風で揺れる。花吹雪が舞い上がる。その下に、キャスターがいる――
ふと、瞼を開く。隣には変わらず桜がいて、彼女も暫くして目を開きこちらを見上げる。
「しっかり、念入りに祈っておきました」
至って真面目な顔でそう告げる桜の様子は実にいじらしかった。
「届くかな」
「届きます、きっと」
彼女の作ってくれた鳥居の折り紙を手に取ると、少しだけ折り紙があたたかい気がした。窓から差し込んだ陽光のせいだろうか。
「言い忘れてた。今年もよろしく、桜」
「こちらこそ、よろしくお願いします。先輩」
まだ外は木枯らしが吹いているだろうけれど。太陽の光に包まれて、桜のにおいで満たされたこの部屋はきっといつまでもあたたかい。彼女の笑顔に目を細めているうちに、俺の口元はゆるりと綻んでいた。
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