一炊の夢 - 1/2


「この間食べたラニの料理は、本当においしかった」

 ――それだけ、伝えたかった。

 廊下を去りかけていた彼女は一度だけこちらを振り返り、相変わらず感情の見えにくい紫水晶を眼鏡の奥からこちらへ向けて「そうですか」とだけ言い残してゆく。緩やかにウェーブのかかった長い髪が歩みと共に波打ち、静かに彼女の影が遠ざかる。引き留める言葉はもう持ち合わせていない。
 彼女との仮初の日常はこれで終わり。あんな風に、どこにでもいる学生のように彼女とごはんを食べることもない。誰も口にはしなくとも、今日が終わってしまえばわたしは彼女を殺してでも生きることになる。
 ……それでも、まだ日は高い。今日という一日に留まることはできないし、この脚が歩みを止めることはできないけれど。このあわいだけは、彼女と戦う現実に蓋をすることを許されたかった。

✦ ✦ ✦

「それにしても、皆料理がうまいよね」

 ラニの影が見えなくなった後、彼女の見通していた窓越しの風景を眺め歩きつつ霊体化したアーチャーに話しかけてみた。……何でもない世間話。末に実りを期待しないただの雑談のつもりだった。

「うん? ラニのことか」

 わたしの意図を察してか、わざわざ実体化して彼は話しかけてくる。霊体化した彼と念話するでも意志疎通に問題はないのだが、顔を突き合わせて言葉を交わす方がきっと気が紛れた。

「そう。あと凛も」
「食べ損ねたのにかね」

 苦笑するアーチャーに痛いところを衝かれながらも、もう言わないでほしいと階段の手すりに手をかけ念を押す。自分の軽率な行動により凛の手料理にはありつけなかったが、本当においしそうだとは思ったのだ。
 ――それに、凛と一緒に摂る食事は尚のこと幸福に感じられそうだ。ラニのお弁当が心に残ったのも、多分彼女とああして過ごした記憶がかけがえのないものだったと、今こうして噛みしめているからかも知れない。

「確かに彼女の指には傷が目立ったが、あの遠坂凛の作る中華だ。たとえ今は未熟であっても、そう遠くない未来に大成するだろう」

 ラニへ思いを巡らすマスターを横目に、このサーヴァントはえらく訳知り顔で凛について語っては一人で納得する。……まあ、そこに突っ込み始めるとこちらが丸め込まれるだけなので口出しはしない。それより、今は他に彼に言いたいことがある。

「アーチャーのごはんもおいしかったよ」
――私の?」

 言葉を乗せて転がした舌がいつの間にか埋もれていた記憶を呼び覚ます。アーチャーの作ったごはんは本当においしかった。ほくほくと皿から立ちのぼる湯気、鼻から吸い込んだあとすぐに口の中まで拡がってゆくごま油特有の香ばしさ。箸を伸ばしてみれば、ジューシーな肉汁や新鮮な食感の残る野菜にしみじみ感じ入り、食が豊かである幸せをゆっくり噛みしめる、そんなごはん。
 ああ、でも――あのときアーチャーが作ったごはんは何だったっけ。思い出せないまま首を傾げて宙を見上げると、アーチャーが視界に入らない。何だろう、と後ろを振り返れば、彼は踊り場の上で何か思案するように眉根を寄せ顎に手を当てている。

「アーチャー?」
「マスター、それはいつの話かね」

 そうして立ち止まったままの彼は、随分と言い出しにくそうに耳を疑う言葉を吐き出した。
 え、とつい反射的に反駁しかけたが、こちらもこちらで返事が出ない。いつ、わたしは彼のごはんを食べたのか。さっきの妙に現実感のあるイメージはどこから湧いて出たのだろう。

「……わからない。でもアーチャー、わたし」

 少しだけ焦るわたしの声を制し、彼も些か慌てた様子で首を振った。

「いや、君が嘘をついていないことは承知している。言われてみれば確かに……何か作ったな。だが、君にいつ何を作ったかがさっぱり記憶にない」

 そこで会話は止まってしまった。
 わたしの勘違い、だろうか? なら、わたしはアーチャーが料理上手だとどこで知ったのだろう。考えてみればとんと覚えがない。何でもそつなくこなす彼であるし、節くれだった武骨な手で包丁を振るう姿は様になっているとは思う。だが、それを連想するに至った決定的な記憶が見当たらない。

「二人して同じ夢でも見たのかな」

 ……夢なんて、あの欠けた夢のことしか覚えていないけれど。そう付け足すのは野暮な気がして、何も言わないでおく。どうだろうな、と彼にしては曖昧な微笑みを浮かべたままアーチャーも視線を傾けた。

「まあ、君が食べたいと言うのであれば……材料を調達して何か作るのもやぶさかではないが」

 徐に踊り場から降りてくる彼の思わぬ返答に目を瞠る。彼の表情を見て自分が言葉を聞き違えたわけではないことはすぐに知れた。

「本当に?」
「ああ。戦いの最中ではあるが、腹が減っては何とやらだ。それで君の士気が向上するならいいことだろう」

 アーチャーはわたしより随分と上背があるものだから、幾つか下の段に立ってやっと視線の高さが釣り合う。彼の双眸の厳しい黒鋼色は少しだけなりを潜め、普段と比べわかりやすくわたしへの慮りの光が差し込んでいる。そういえば、今日はいつもより彼から降ってくる皮肉が少ない。明日はこの電子の海にも雨が降りそうだ。

「わたし、食べたい」

 なんて、言葉が何の気もなくするりと零れて、落っことしてからようやくああ、確かにアーチャーとごはんが食べたいな、と思った。ラニとお弁当を食べたあのときのように。そして凛と交わした未来での約束のように。彼とも共に食事をしてみたくなった。

「では、リクエストがあればできるだけ応えよう。だがその前に準備をしなくてはな」
――うん!」

 意図せずして大きな声が出ていた自分自身に少しだけ驚きながら、わたしは階段を一息に駆け下りた。

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