炎でしかなかった - 1/3


 私は、氷でなくてはならない。
 私は、炎であってはならない。
 その縛を忠実に、とはどうしてもいかなかったけれど。それでも何とか冒さぬよう、必死に固辞し続けた十月十日だった。
 そして私達は今、ひとつの決戦を乗り越えて――様々な意味での終わりを迎えようとしている。

「ブリュンヒルデ!」

 自室へと向かっていた私の名を呼ばう青嵐のような声の主を誰何する必要はない。携えた槍を差し向けぬよう、固く胸に抱いて注意深く背を振り返る。東洋人特有の黒髪に、いつもの白の支給制服を纏ったマスターは声ばかりは元気がよいものの、先までの決戦――バビロニアでの戦いの疲労は纏う空気に如実に現れている。無理もないことだ。今はただゆっくり休んでほしい、そう身を案じたいところであるというのに。彼は次の眠りから目覚めたあと、間を入れず彼の魔術王、ソロモンを相手取り世界を救う為戦わなければならない。

 加えて、彼の運命――あのデミ・サーヴァントの少女、マシュの命の限りも近づいていると耳にした。この旅路の門出から見守っていたわけでないとはいえ、彼等の結びつきの強さは遠くから窺うだけでも手に取るようにわかる。世界の終わりも、大切な人の死も、まだ稚い年頃の彼の肩で背負い込むにはあまりにも重すぎるように思えた。「……マスター」返事をするというより、ただ呟くだけになってしまった私の声は震えてはいなかっただろうか。近づいてくる彼の様子は相変わらず無防備で、困ってしまう。

「お疲れ様。調子はどう?」
「ご心配には及びません。マスターがお望みのままに、いつでも槍を振るえます」
「そっか。それなら安心だな」

 安心など本当にできているのだろうか。彼の拳の震えは注視すれば容易に見て取れる。そんな私の憂慮をすぐさま見抜いて彼は「ブリュンヒルデは心配性だなあ」と笑った。いつかの夜、自分は英雄ではないと言ったときと同じ笑い方で。
 確かに彼は無力だ。嬉しいときに笑い、悲しいときに俯き、当たり前に死を恐れるただの少年。けれど、そんなあなたをこそ私は英雄らしいと思ってしまう。様々な英雄と出遭い契約を交わしながらも、彼等を使役する己に驕ることはないマスター。己が身が傷つこうと、誰かの為に命を賭せるその心の在り方に、私はあの人を感じてしまう。……感じてはいけないのだとわかっていても。

「あなたのことは必ずお守りいたします。マスターの命は何よりも重いものです。この、私の槍よりもずっと」

 呟いた後、瞼の裏に浮かびかけた炎を鎮める。……そう、私はただ、この槍の矛先を彼に向けないよう自分を律し、彼の従える内の一槍として控えるのみ。本来こうしてすぐ傍らに在るべきでもない。心無い道具として、私は在りたい。

「……ごめん。結局、召喚してから今までブリュンヒルデには無理させてばっかりで。最後までどうすることもできなかった」
「いいえ。あなたが自分を責めることはありません。壊れている私がすべて悪いのですから」

 私の否定に返す言葉を探しあぐねて、見つからずに俯くマスターはやはり善良なる人間だ。私の行動原理が破綻している事実を認めながらも、それは違うと言いたげな瞳はどこまでも真っ直ぐな性根で、私には眩しすぎる。

「……重用してくださるのはとても嬉しいのです。わざわざ貴重な聖杯の魔力リソースまで回していただいて……ですから。この最後の戦いでも、そんな風にただの武器として扱ってください。できれば直に触れぬよう。私は……ただ少しの震えで暴発してもおかしくない爆弾と変わらない」

 この少年にそんなことはできないと理解しながら、私は願う。そう度々口にして確認しておかなければ、このところ私は私自身を信用できない。少し前、あまり鮮やかには思い出せないけれど、在り得ぬ筈の夢を見た。私の理性と炎が分断たれて、炎が理性もろともマスターを殺そうとする夢。奇蹟が起き、ひどく優しい人のおかげで炎は理性の元へと戻ってような彼は助かった。――でも。もしあの夢の結末が現実に影響を齎すとしたら。夢の中で、彼を殺してしまっていたとしたら。……あの時の二の舞になってしまったなら。

 以前の話。もう半年は経つのだろうか。マスターの何でもない一言にシグルドを強く想起してしまって、彼を本当に殺すか殺さないかの際を踏み越えそうになったことがある。私の殺気を感知した彼のサーヴァント達によって何とか防がれ、彼の身体には傷一つつかなかったけれども、私がマスター殺しをしでかしかけた事実は変わらない。だからすぐに契約を解かれて仕方がないと覚悟を決めたのに、変わらず彼は私を使役し続けた。戦力の要として、何度も何度もこの槍を振るわせ続けていた。

『あなたは私に殺されたいのですか……』

 この一件のあと、マスターから意図的に距離を置くようになってからも、彼は懲りずに私へ近づいた。寧ろ以前にもまして傍に寄られることが増えた気さえする。屈託なく微笑みを向け、戦を終えた私に労いの言葉をかける彼。その事実が嬉しくて、同時に激しく耐え難くどうしようもなくなって、そんな愚問を彼に投げた。問うたところでマスターを困らせるしかできない言葉など口にするべきではないと理解していても、そうせざるを得ないほどあの時の私は私自身に追い詰められていたのだっけ。

『痛いのは嫌だな』

 彼は驚くでもなく躊躇うでもなく、ただいつもの何でもない様子で少し間を置いたあとそう告げた。痛くないようにしますからってブリュンヒルデは言うけどさ、と冗談めかした笑顔を挟みながら、彼は少し困った風に頭をかく。

『……うん。死にたくはない。だってオレは生きたくて戦ってるんだから』

 そんな彼に熱に浮かされたままの私は何と答えたのだろう。やっぱり、とかあなたらしい答えですね、とか、今思い返して懐くような感想をそのまま口にできていただろうか。彼は二言三言他愛もない話をつづけたあとに私へ頭を下げてきた。どうして謝るのか――謝らなければならないのは私の方なのに。『いや、……やっぱりオレは君に酷いことをしていると思う』そう断りを入れたのち、彼は再び顔を上げ、踵が高い分彼よりも上背のある私をつと見上げた。

『それでもブリュンヒルデには、オレと一緒に戦ってほしい。一緒に未来を見てほしいんだ』

「ねえ、ブリュンヒルデ」

 回想を紡いでいた記憶の糸がふと途切れる。目の前にはあの時と同じく、彼がいる。

「前に言ってたよね。自分に殺されてもいいのかって」

 彼の促すままに私は口を開かぬまま頷く。あなたが自分と同じことを考えていた嬉しさに思わず舞い上がりそうになった。そんなことに喜ぶ意味がなくとも。

「今でもオレは死にたくないよ。生きるために戦ってるんだから。君と出会った時はかっこつけていつか世界を救う、なんて言ったけど……人理を修復するのも世界を救うのも結果論だ。ここで終わらないためにオレに背負えるのが、たまたまマスターって役割だったってだけ。オレ自身はやっぱり、何の変哲もないただの元高校生で。死を恐れず戦える英雄なんかじゃない」

 迷いを感じさせない明朗な口調の彼は謙虚な態度こそいつもの通りでも、その面持ちからは決死の覚悟が滲み出ている。……その覚悟が、根拠のない凡庸な強がりでできているのだとしても。戦いの終わりまできっと彼はその意地を張り続けるのだろう。それがもうわかっているから、私は何も言えない。言うことはない。そもそも自らを道具であるとするならば、ただ主の言葉に黙って従っているべきなのだから。

「でも、今までオレはオレを殺したくないブリュンヒルデに甘えてたからさ。本当はオレなりにけじめをつけたくて」
「え……」

 ――けれど。
 相好を崩し、いつもの年相応の少年らしい面持ちとなった彼が切り出したその一言に、私は思わず息を呑む。

「ブリュンヒルデも、この戦いが終わったらここからいなくなっちゃうのかな」

 彼の問いかけに私は反射的に頷いてしまう。だけど、本当のことだった。人理修復をめぐる旅路は、次の戦いで終わり。私は人理修復の為にカルデアのマスターに召喚された。ならばその戦いが終われば座に戻るのが道理だ。特に私のような危険なサーヴァントは、一刻も早く彼との契約を断つべきだ。「そっか。じゃあ、これは聞き流してほしいんだけど」私の反応に少し残念そうな色を浮かべながらも、彼は私へ笑いかける。

「オレは、ブリュンヒルデがオレを殺さないって信じてる。ブリュンヒルデはオレを殺したくないから。……でも、オレを殺したい君のことを否定したくはなかった。君はずっとだめだって否定してるけど……それもブリュンヒルデの本当の気持ちだ。
 だからさ――そんなブリュンヒルデ自身を否定しないでいられる未来を、君と一緒に見てみたかったんだ」

 そう、マスターは軽やかに。晴れすぎた空の瞳に一切の嘘を浮かばせぬまま、歌うように呟いた。

 何もしていないのに、肩が震えていることに気が付く。遅れて私が今耳にした彼の言葉の意味を理解し始めた途端、マスターは手をひらひら振って再び自室へと歩き出した。彼の足を止められない。……止めるなど。声を出すことすらできなくなった気がしている今の私にできるわけがない。

 マスター。どうしてそんなにまでして、あなたは私へと手を伸ばすのか。あなたは生きたいが為にこの世界を救う。そのために武器である私を使う。だから世界が救われたなら、それで用済みだ。なのに、なのに――あなたがそんな願いを口にするなんて。もう定められた運命、変わらぬ物語であるブリュンヒルデが、あなたの未来に存在し続けることを望むだなんて。この壊れかかった私の心まで肯定しようとするなんて。

 そうなれば私は、いよいよ氷ではいられない。本当に、あなたをころしてしまう。

「おやすみ。ブリュンヒルデ」

 彼の優しい眠りの言葉に結局言葉を返せないまま、私はどこまでも白く続く廊下の先を暫く茫然と見つめていた。

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