時間神殿より帰還したあとのカルデアは、声を出せば向こうから跳ね返ってきそうなくらいにしんとして静かであった。
……と言えば、少し嘘になってしまう。今私が立っている、与えられた自室があった場所がこんなにも静かなのは、時間神殿での被害の余波で施設自体が使い物にならない区画だから。スタッフ達は管制室で今も外部との対応に追われているようだったし、その付近まで行けば人がせわしなく活動している様子はすぐにわかる。けれど――つい昨日までそこかしこから感じられたサーヴァント達の気配は、殆ど消え去っていた。
――結局。世界は救われて、救われた世界に私は未だなおこうして在り続けている。
ブリュンヒルデという戦乙女であったモノの運命は、既に完結している。死者に未来はない。愛する者をこそ殺してしまうこの狂った機能を取り除き、真っ当な女として生まれ直すことはできない。それどころか、どんなに自らを律したところで二度とマスターを殺さないという保証はどこにもない。
だから、マスターの未来に寄り添おうとすることに意味はない。この旅路の終わりは、未来ある生者が迎えるべき結末だ。たとえばそれはマスターであり、マシュであり、彼等の運命の見届け人は彼等自身だ。私などでは決してない。
わかっていた。――それでも。私の天秤は今度も、マスターへの愛に傾いてしまった。私は彼を――彼の見た夢を、信じたいと願ってしまった。
「……ブリュンヒルデ」
ほら、だからこんな風に。彼の姿を見るだけで、胸を閉ざした筈の氷がちりちりと痛むのだ。だって、閉じ込めた内側の炎が今もそれを溶かさんとごうごう、音を立てて燃え盛っているのだから。
廊下を横切ってきたマスターは、私を見るなり間髪を入れず駆け寄ってくる。けれど何と声をかけたものか、言葉に困った――というか随分と感極まった様子で、もう一度私の名前を呼んだあと暫く口を噤んでしまった。
マスターが喜んでくれている。私がここに未だ在ることを。一目でそれがわかってしまうのがどうしようもなく嬉しくて、同時に苦しかった。私は一体何をしているのだろう。やはり早くここから立ち去らなければ、きっとすぐにでも握りしめた槍を彼に向けてしまう。
「ごめんなさい……還れと仰るなら、還ります。でも私、どうしても――」
「言うわけない!」
珍しく焦りを滲ませた声音がそんな私の言い訳を断つ。伏せがちになっていた視線を上げて再び彼の顔を窺うと、「よかった、まだ君と一緒にいられて」と安堵した表情を浮かべているのが見えた。
「ジャンヌ・オルタに言われたんだ。ブリュンヒルデがカルデアに残っているかどうかはあんたの目で確かめなさいって」
まあ、早く探して来いって言われたから残ってるんだろうなって思ってたんだけどさ、と頭をかくマスターの言から、つい数時間程前に見た彼女との記憶を手繰り寄せる。サーヴァント達が次々と退去していく中、消えない私を見て何か言いたそうな素振りを見せていたっけ。目が合った瞬間逸らされてしまったから、言葉はまだ交わしていないのだけれど。
「ありがとう、ここに残ってくれて。またこうして話せて嬉しい」
「マスター……ええ。私も嬉しいです。嬉しいと感じてはいけないとわかってはいても……私は、あなたの言葉を信じたいと願ってしまった」
罪を告解すると、少し困ったような色を一瞬浮かべてマスターが「そんなことないよ」と肩を竦めた。「ごめんなさい」と同じくらいに「困る」とよく口にしてしまう私だけれど、本当に困ってしまうのはマスター自身なのだと思う。
「ああそうだ、今日は外が珍しく晴れてるんだ。知ってた?」
何気ない彼の問いかけに私は首を横に振る。外の様子についてはきっと管制室に詰めているダ・ヴィンチならば知っているのだろうけれど、生憎と私は耳にはしていなかった。マスターはそれならと朗らかにひとつ、私へ提案をした。
「さっきマシュや他の残ってくれた皆と外の様子を見てきたんだ。ブリュンヒルデとも見に行きたいな、と思って」
それから、彼の言うままに連れ出されたカルデアの外は――さっきの瓦礫の中よりもずっと澄み切った空気で満たされていた。
「綺麗だよなあ」
それだけ口にして、あとは黙って嬉しそうに笑っているマスターの横顔の先の空の色を、私はただただ茫然と見つめていた。
カルデアにて召喚されてより、私はこの世界の晴れ間を目にしたことが一度もなかった。無論レイシフトをした先では晴れの日も雨の日も体験したけれど、カルデアはそもそも標高六〇〇〇メートルの雪山に造られた地下工房だ。マスターの生きる現在、二〇一六年――いや。二〇一七年を迎えようとしているこの世界の外に出るのは今が初めてのことだった。加えて、毎晩眠りにつく前に再生していた戦乙女の頃の記憶にあったのは、駆け慣れた氷の寒空だけ。
だからこんなにも、初めて見た彼の守った世界の空が晴れていることに、心が震えたのだろう。確かに一面の雪原は昔の記憶の景色とよく似ている。けれど今は、マスターの眸と同じ色をした清々しいコバルトブルーの空が、彼を――そして彼の隣に在るこの私をも包み込んでいる。生きたいという願いを諦めず、遂に世界さえ救った少年の歩みと、新たな人生という旅路の門出を祝福するように。命を殺しかねない砂漠の太陽の照り付けではなく、春を待ち望んでいた氷をゆっくりと蕩かすような、柔らかながらも確かな陽射しが、永久に融けぬ筈の雪の大地をやわらがせている。
これが彼の望んだ未来。彼が夢見た――私との未来の始まりの景色。
その光に、ふと手を伸ばしていた。
ああ、こういうことだったのだろうか。こういうことで、よかったのだろうか。
「――私、燃えているんです」
そんな風に口にしてしまえば、案外それはどうということもない、ただの言の葉のような気がした。振り返ったマスターは訝しげにこちらを見上げ、何度も瞬きを繰り返している。
「ブリュンヒルデ……?」
「ええ、燃えています。私はやはり、炎だったんです」
――そうだ。氷と偽ることはもうできない。私は結局、炎でしかなかった。
こうして燃え盛るのは、私の心から溢れ出る想いのかたち。相手に死んでも死なれても、絶対に消えはしない。どんなに氷を張ったとて、どんなに自ら凝ったとして――あなたのその陽射しに溶かされてしまうのだもの。
「それでも――私が炎であっても。炎としてあなたの力になりたいとも、あなたを焼き尽くしたいと、思ってしまっていても……あなたの傍らにいて、いいですか……」
これまでずっとずっと堪えていた筈の涙が一つ、雪の上に溢れた途端そのまま止まらなくなってしまう。熱い。熱い。私の炎に焚き付けられて沸騰しているかのように。みとめた激情の奔流が何重にも施した戒めを壊してゆくのを止められない。
「もちろん。オレはそんなブリュンヒルデのことが好きだから」
けれど。彼がそう言って何でもないことのように微笑むのを見て、苦しさは嘘のように消えてしまった。
寧ろ嬉しくて堪らない。私は炎だ。けれど炎であってはならない。そう言って数えきれない程に否定してきた己自身を、マスターであるあなたに肯定されること。そしてこの炎をあなたに肯定される事実を、他でもない私自身が受け容れられたことへの歓びに包まれている。
私はあなたを愛したい。――でも、私はあなたを殺したくない。
それでもいいと言ってくれた。それでもいい未来を作りたいと、あなたは言った。そして、私もそんな未来を夢見たいと思った。これがきっと、私達の辿り着く、そして通り過ぎるべき答えだった。
「これからもよろしく。ブリュンヒルデ」
そうして。差し出されたマスターのあたたかい掌に、縋りつくように、初めて触れた。触れた瞬間、私から出でた蒼の炎が燃え移って彼の身までもが燃え上がる様を幻視したけれど、瞬きの間にその幻覚は形を失くして溶けた。私の眸に映っていたのはいつも通り年相応の面立ちに微笑みを浮かべた一人の少年と、その真上に拡がっているうつくしい蒼穹だけだった。
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