街の雑踏に撒かれるように聴こえてきた歌を口ずさんでいた。難しく飾り立てたわけでもない歌詞、情緒のない私でもわかる綺麗な言葉を音に乗せる。いつか「声だけはよく通る」と褒められたことを忘れられないままだ。自分の心の在り方以外を評価されるのは珍しい。もっとも彼の琴線に触れたのは声だけであって、音は外すしリズムは途中でわからなくなるし、まともに聴けば結構ひどい。けれどそれを差し引いても、歌うこと自体は好きかも知れない。私の考える言葉はうまくない。だからときどき人の言葉とメロディに思ったことを託してみるのも必要だ、きっと。
彼の目の前で披露したことはまだない。なにせ鋭い審美眼と耳の持ち主だ。聴いてもらうならばせめて茶々を入れられないぐらいに上達しておきたかった。だからこの冬場にこうして毛布を羽織りながら、ベランダで夜景に佇み、ぼうっと、心の赴くままに。或いは我に返って間違えたところからやり直したり。声は白い吐息に乗って静かに消えていく。──うん。これなら、いくら緊張したってあの簡単なメロディラインを外すこともなかろう。拳を握り締めて喝を入れ、そろそろ部屋の中に戻ろうとした瞬間。
「まだまだ未熟だが悪くない。以前耳にしたよりは幾許かの技術の向上を感じるぞ」
締めていた窓が引き開けられて、その向こうにギルガメッシュが立っていた。
「……聴いてたの……」
「貴様の声はよく通るからな。以後は特別に我への献上を許そう」
言われなくてもそのつもりでしたけどね。というか今までのも聴かれていたのか。彼が席を外したり寝ている時を狙って練習していたつもりだったので、ちょっと恥ずかしい。声が通ると褒められるのは相変わらず嬉しいのだけれど。
悶々としながらもちらりと部屋の中の時計を見遣って、ちょうどいい頃合だと彼に向き直る。そのまま黙って見上げていると何だ、という風に睥睨されたが気にしない。秒針が12を指す一瞬を狙って私は大きく息を吸い込む。
「ハッピーバースデイトゥーユー」
そのまま目を閉じて心を込めて、最もシンプルな気持ちを歌う。たどたどしく上がり下がりする旋律に覚えたとおりの一辺倒の言葉をつけて。
「ハッピーバースデイ、ディア、ギルガメッシュ!」
もう一度誕生日おめでとう、と歌って自分で拍手。ちゃんと音も外さず歌詞も間違えずに歌えた達成感ににやつきを抑えられない。そのまま彼を見つめると、「自画自賛するでない」と笑われた。お、でも何だか好感触っぽいぞ。そのままどうでしょうと胸を反らすとひょいと腰から持ち上げられて部屋の中に移動させられる。ふわりと鼻についたのは彼のいつものエキゾチックないいにおいと、肩越しに見えるテーブルの上に置かれた彼用のワインと、その隣に置かれた私用の蜂蜜入りのホットミルク。……しまった、誕生日ぐらいそこは私から用意すべきだった。来年は気を付けよう。
「いつかの戯言を真に受けおって。我の生誕を賛美したくなる貴様の気持ちもわからんではないが、何も出ぬぞ」
そう言いながら私にマグカップを渡してくる彼のこの手は一体何なのだろう。ベッドに腰掛けて隣の彼と共にミルクに口をつける。まだ熱いから息を吹きかけ、ちょっとずつ冷ましながら。年の瀬かつ彼の誕生日と言いながら、結局この構図は昨日とまるで変わらない。彼はそれでも悪くないと、暗に肯定するようにお酒をあおっている。
「我は一度目の生を既に終えている。年を取ることもない。祝ったところで意味はないというに」
「えっ、でも祝って欲しかったから教えてくれたんじゃなかったの?」
「……とぼけたマスターめ。生誕の祝福など、寧ろまだ生まれたばかりの赤子同然の貴様自身が欲しがるべきであろう」
そうか、私の誕生日……彼に言われるまで失念していた。月の裏側では時間は流れていなかったし、表に時間の経過はあったにしろカレンダーはなかった。名前とこの身と心ぐらいしか、私は自分を証明するものを持っていない。地上の自分のデータには目を通したから一応覚えてはいる。けれど【彼女】は【彼女】であって、その日付にしっくりは来なかった。
そもそも誕生日にしっくり来るも何もないのだろうけれど、この「私」の生を祝福してくれるのはそんな設定上の年月日ではなく──。
「えっと。ギルはあの時私を連れ出して、生かしてくれましたね」
「何だ、いきなり」
「……じゃあ、ギルが一緒にいてくれるだけで毎日が誕生日だと思いマス」
たじたじとしつつも告げると、彼はひとしきり笑ってみせた後、いつものようにぐるぐると渦巻く金の蔵にグラスを放って私をぐいと引き寄せた。遠慮なく頭に顎まで乗せられている。流石にちょっと苦しい。飲んでいたミルクも零れそうで危なかった。──でもこれはこれであったかくて幸せである。
「相変わらずその愚直すぎる物言い、呆れを通り越して感心するぞ」
なんて口では言っているが、絶対内心はめちゃくちゃ喜んでいるに決まっている。普段はもっと余裕綽々にこっちをからかってくるのだから。
「ギルの誕生日なんだから、私が意地張ってもしょうがないでしょ」
そう言って彼の腕をすり抜けて、残りのミルクを飲み干しマグを置きに立ち上がる。振り返ると案の定彼の顔は少々不機嫌そうだ。雑種もあなたと毎日過ごして、ちょっとは強くなったんですよ。あなたには多分一生かないませんけど、今の一瞬だけでもちょっとくらいは私に翻弄されて欲しいです。だって今日はあなたの誕生日であって、私はあなたをいつも以上に喜ばせたいのだから。それ以外は大して何も変わっていないのだろうけれど。
「歌ぐらいしかあげられなくてごめんね。これ以上いいの、思いつかなかったから」
「なけなしの端金で買えるものは限られていよう。そこは自らの体で我を悦ばせよ」
この王様セクハラしないと気がすまないのか? ギルガメッシュの悪癖にいちいちむくれるのもどうなのだろうと思いつつ、私は彼の下へと戻る。褒美だと言わんばかりに彼も彼で立ち上がって、覆いかぶさるように私を抱きしめる。──このぬくもりも昨日と同じ。どこまでも特別で、けれどいつも通りの夜だった。
「ギル、今年もよろしくね」
「ふふん、当然だ白野。我からそう簡単に逃れられると思うなよ」
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