アステロペの天球戯 - 1/2

 そこはいつか見た果てなきソラ。金の砂粒を散りばめたような星々が瞬くどこでもないどこか。もう二度と足を踏み入れることのないと思っていた月の裏側の、鎖された最奥の青だった。

 微睡む瞳は何度か瞬きしているうちに確かな像を結び始める。鼓膜が痛い程しんと静まり返った空間に、私だけがぽつねんと在る──ように思えたけれど、そうではなかった。少し離れた場所に、何か球状の物体が見える。あれは一体なんだろう? 重力場の感じられないソラの中、私はその物体へ近づこうと空気をかき分ける。

「わあ……」

 その物体が何であるか視認した時思わず声が漏れた。それは、絡繰仕掛けの天球儀だった。金属の輪によって赤道や子午線などが表現された、謂わば天の標。輪はゆっくりと中心の球体を軸に旋回している。精巧な作りのそれは、近づくとぼんやりと発光し始めた。
 躊躇いよりも好奇心が優って、私は天球儀に触れてみる。すると──

『……これからも、ずっと一緒にいてくれるの?』
『それでも我と共にあると誓った身か』
『ねえ、ギルは私の夢を見たことあるの』
『ならばゆめゆめ忘れるな。貴様が手にした力の正体を』
『私を連れ出してくれてありがとう』

 ──ああ、流れ込んでくる。
 ──この記憶を私は知らない。
 ──だけど、ひどく懐かしい。

「貴様にも視えたか」

 たちどころに溢れ始めた涙を拭う暇もなく、声がした方へ振り向いた。そこには何度も何度も再会を願ったあなたがいる。

「ギルガメッシュ……」

 二度と口にすることはできないと思っていた。ギルガメッシュ。人類最古の英雄王、私のサーヴァント。……否、そんな肩書きはどうだっていい。なんて口にしたら、彼に怒られてしまうだろうけれど──御託をならべる暇も今は惜しい。

「言われずとも理解していような。──それは我が見たいつかの未来。貴様が選ばなかった世界の出来事だ」

 今にも彼の方へ駆け出してしまいたい衝動と、それはできないと自戒する心がぶつかって、余計に情緒がぼろぼろになる。できることなら私も、さっき見た彼女のように彼の手を取ってしまいたい。こんな寂しい場所からあなたを連れ出して、まだ共に歩み続けたい。

 私は桜を守りたかった。どこにでもいるただ人の私の為にBBが使い果たしてくれたあいを受け取って、私は桜と歩むことにした。だから、ギルガメッシュとはお別れだ。月の裏に封印された彼が、月の表はおろか地上に来ることはない。

 けれどこうして別の可能性を視てしまった以上、どうしても考えてしまう。桜の手とあなたの手のどちらも取りこぼさず、前に進むことはできなかったのだろうかと。

「たわけ。あれ程我を貴様の尺度で測るなと言っていように」
「……まだ何も言ってないのに」
「その目を見れば誰であろうと一目でわかる」

 私の浅ましい思いなどギルガメッシュは全てお見通しのようだ。……まあ、当然だ。全てを識っていたあなたが、こんな私の都合のいい夢に思い至らぬわけがない。

「あの我が月の表へ渡ったのは、桜が消えた以上我以外の他に誰も貴様の運命を転輪せしめる者がいなかったが故。貴様が貴様の力で我をここより連れ出したのではない。決してそこを履き違えるな」

 相変わらず手厳しい調子でギルガメッシュは私を叱咤する。だけど今はその声音の鋭さすら懐かしくて、あたたかくて、……嬉しくて仕方がない。散々表側に戻ったら死ぬぞとか何とか脅してきていたあなたが、どうにもならなかった私に手を伸べる算段をつけていたなんて。何も言葉が出てこないまま彼を見上げると、ふんと眉根を緩めて彼はにやりと口元を吊り上げた。

「あの娘は健在か」
「……もちろん。私も桜も元気」

 あり得たかも知れない未来すら映っている彼の目ならば、今の私のことだって既に見通しているだろうに。彼のわかりにくくてわかりやすい気遣いに笑みが零れながら私は頷く。

「ならばそろそろ目醒めてやれ。再び堕天の庭の夢に囚われている暇はないぞ」
「でも」
「何度言わせる」
「でも、私は……!」

 気持ちが言葉にならないまま、ただただ涙が止まらない。伝わっているのだとしてももどかしい。

「そう駄々をこねるな。全く、貴様も随分と欲深くなったものよ」

 気まぐれに私の流れっぱなしの涙をギルガメッシュが拭ってくれるが、彼は相変わらず鎧の籠手をつけたままなので正直冷たいし硬いし痛い。そのまま文句をつけると「王の輝く召物に難癖などつけおって」とめちゃくちゃ怒りながらも彼は上半身だけキャストオフしてくれた。

「欲を張れって言ったのはギルの方じゃない」
「はっ、それもそうさな」
「ねえ」
「何だ」
「ギルは、……こっちに」

 来てくれないの。そう口にすることはやっぱりできなくて、私は押し黙る。これはただの私の夢だとわかっているから。現実にするには、何て虫のいい話なのだろうと思ってしまうから。

「いいや。我等の物語はこれにて終いだ」

 そんな私の迷いを断ち切るように、彼はあの別れの折に見せた愛しげな微笑みを浮かべた。

「これよりは貴様と桜、今を生きる人間の物語。そこに過去の遺物である我の出る幕はない。せいぜい二人きりで無様に足掻け。気の済むまで地を這いずり、醜くも見応えのある生を全うせよ。我の視た未来は、貴様等自身の手で現実にするのだ。──それが万物にも代え難い我への報酬となる」

 そう語りながら、ギルガメッシュは眩しそうに目を細めて私に笑いかける。その表情は、いつもの悪辣なニヤニヤ笑いがちょっと懐かしくなるくらいに優しい茜色に染まっていて──彼の言葉の一つ一つに籠められた思いを感じ、体が勝手に熱くなる。

 元は魂のないNPCだった私を、ギルガメッシュは人間だと認めてくれた。桜の手を取り前へ進むこと、その道行きに祝福を与えてくれた。人間はこれでいいのだと信じてくれた。──ならば。私にできることは、きっとあなたが信じてくれた私でい続けること。桜と一緒に前を向き、欲張って、諦めないで、自分にできることを精一杯やって。手の届かない星を見上げながら、力尽きるまで走っていくことだった。

 堪らなくなって彼の胸に頭を預けてしまう。先刻天球儀を通して視た、彼とどこかの惑星へ飛び出した私のように。離れ難くなるからやめた方がいいとわかっていたけれど、先に体が動いていた。彼はそれを止めずに受け容れ、私の頭をその大きくてあたたかな手で撫でてくれる。私は月で生まれたから、父も母も知らない。けれどきっと親のような人がいるとしたら、あなたのことなのかも知れない。……いやまあ。素面で考えてみたら、こんな人がお父さんだったらそれはもうものすごく大変なのだろうけれど。

 段々と視界が狭まっていくのを感じる。それは流している涙のせいではなくて、私が本当に夢から醒めかけているからだ。

「ギル」

 私はギルガメッシュの胸から頭を離し、彼を見上げた。ルビーのように鮮やかな赤い瞳が、私をまっすぐ映し出している。未来さえ見通す鋭い視線に射抜かれていることについて、相変わらず畏怖の念を感じないわけではない。でも、今は畏れ以上に喜びが勝る。理解できなくたっていい。あなたも毎度念を押すくらい、私とギルガメッシュは過ごした時間も場所も性別も出自も、何もかも隔たっている。私が真にあなたを理解することは絶対にできない。

 だけどそれで構わない。だって──ギルガメッシュは私を殺さない。あなたは人間わたしを愛してくれている。

「あなたに会えてよかった」

 だから、これだけは伝えないと。涙も鼻水もぐちゃぐちゃに混ざっているから、ものすごく汚い。けれどそんな私の醜さをきっとあなたは笑い飛ばして、なおも大切に拾い上げてくれるのだろう。ならば私も見返そう。人智を超えたあなたの瞳の光に負けないくらい輝いてみせよう。だって私は、あなたが愛した人間なのだから。

人間わたしを愛してくれてありがとう。私も、ギルガメッシュが大好き……!」

 ──そう叫んで瞬きした瞬間、全ては泡となって弾けて消えた。

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