「ありがとう。あなたに出遭えてよかった」
――笑顔だけを残して、少女は海に還っていった。
聖杯の炉心、ムーンセル・オートマトンの中枢部。別称・熾天の檻には海水が満ち、視界は光のスペクトルの中から散乱したコバルトブルー一色に染められている。その中に一人で飛び込み、ささやかな願い――聖杯戦争の終結と、友人の地上への帰還を入力したマスターの姿は既にない。何色でもなかった彼女の身体は紺碧に消え、赤の外套を纏ったサーヴァントの自分だけが融け残っている。
やれやれ、波長の長さから言えば自分は真っ先に分解対象だろうに。そんな皮肉の一つも言いたくなるが、本当に物理学の法則通り自分が先に分解されてしまっていたら、正直格好がつかなかっただろう。願いを叶えるという目的を達成するだけならば、ここに来るのはマスター一人で十分だった。その道理を無視して彼女の後を追ったのは、彼女の消去を少しでも遅らせる為――いや。それもあるが、何よりムーンセルに必ず消去される未来が決まっている彼女を、心置きなく送り出す為だった。
初めはいつもぼんやりとした表情ばかり浮かべて、意志の見えにくいマスターだった。だが、戦いを重ねながら己を問い続けた彼女はいつしか自分の想像以上に成長を遂げた。たとえその先に待っていた現実が、自身のアイデンティティを否定する厳しいものであったとしても――彼女は目を逸らさず、足を止め諦めることもなかった。それが今の彼にはひどく誇らしい。似た者同士として、先達として、自分と同じ結末に至らなかった無名の彼女のことを眩しく思う。
(一つくらい、私がアーチャーを助ける世界があってもよかったのに――)
「……なら、ここがその世界だろうな」
わがままの混じった彼女の祈りを反芻しながら、そうアーチャーは独りごちる。……失われた過去、かつての銘ありし自分としてではなく、永遠に報われないこの姿のままに与えられる答えは確かにあった。――彼女こそ、このオレにとっては確かな光だった。
マスターを失ったサーヴァントとして、アーチャーの身体もまた分解が始まる。意識が薄れていく中で彼は天より差す光芒を見上げた。少女は海へ還り、その身体はムーンセルを構成する物質へと変換された。――ならばきっと、あのスペクトルのどこかにでもいるのだろう。
「オレもだ。君に出遭えてよかった」
満ち足りた声が静かに響き、彼の赤い外套は紺碧の中に吸い込まれて消えた。海の中は静寂に包まれ、再び人の声が返ることはなかった。
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