
水気を帯びないからりとした風が私の毛先をさらっていく。照りつける陽射しは相変わらず容赦がない。遠くの地平線へ目を懲らすと、空中に砂の山々が連なる不思議な景色が拡がるのが見えた。――蜃気楼だ。母国にいた頃はあまり馴染みのない現象だった気がするが、このキャンプに来てからはすっかり見馴れた。砂漠に生きる人々にとってはこれも日常の風景の一つらしい。そういう意味では、私も砂漠の民の端くれを名乗ってもいいのかも知れない。まだ一年しか経っていない、と焦る気持ちもあったけれど――もう一年も経ったのだ、と感慨深くもなる。当初は途轍もなく長い道のりのように感じていた訓練の最終日は、一週間後に迫っていた。
……まったく、自分でもよくやっている方だと思う。元々のどこにでもいる普通の高校生という肩書きはどこへやら、辿るべき道筋をすっ飛ばし、筆舌に尽くしがたい冒険を経て今の私はここにいる。安住の地は未だないし、今後できるかもわからない。こうして訓練を通し、現実におけるサバイバル技術――仮想現実でのハッキング技術も必須だけれど――も身につけなければならない理由はそこにある。
もしも西欧財閥に与する国で生まれていたなら、毎日こんなに必死になることもなかったのかも知れない。だけどそもそも、私は本来であれば違う時代の人間だ。そんな仮定にあまり意味はない。なので、今日もシェルターの外で朝の風を浴びながら日課の筋トレを粛々とこなす。筋肉のつきにくい質素な体つきの自分だが、それでも昔に比べたら随分と筋力・体力共に身についたと思う。と、こうして逐一自分を褒めるのも、日々のモチベーション維持には欠かせないポイントだ。
「47、よんじゅう、はち……っ、49、……ご、じゅう!」
「精が出るわね」
敷いたマットの上で腹筋おわり! とガッツポーズをしかけた途端、聞き慣れた友人の声が背を突いた。
「リン、おはよう」
振り返ると、赤いタンクトップにデニムのショートパンツを穿いたラフな出で立ちで友人――遠坂リンが立っている。両手にはタオルとタンブラーが握られていた。差し出されたそれらを「ありがとう」と言って受け取り、真っ先にタンブラーの栓を開ける。冷たい水が一番おいしく感じられる一時だ。
「朝ご飯の準備できてるわよ。あなたの好物のおにぎり」
「えっ、それじゃあ」
「そ。アイツ、夜中に帰ってきたみたい」
リンからもらったタオルで汗を拭きながら、良い知らせに思わず顔が綻んでしまう。ここは中東の砂漠に面した難民キャンプだ。難民と一口に言っても国を追われた様々な人種や民族の人々が入り混じっているのだが、やはりマジョリティーはこのキャンプの所在地付近に住んでいた人だ。それに併せて炊き出しの献立は基本的にアラビア風である。だが時折、日本風に味付けされた料理も提供されることがある。そして、その時厨房に立っているのは彼――私の担当教官なのだった。
「じゃあ、予定通り私の最終試験は来週?」
「ええ、そこは変わらず。……ほんと、延びに延びたわね。元々は半年前に終わってる筈のプログラムなのに」
「あはは……正直半年だったら合格できる気がしないや」
「へーえ。それじゃ、今回は相当自信があるのね。一年みっちりやったんだものね」
「えっ」
屋外食堂と呼ばれているテラスに向かいながら他愛もない会話を続けていると、横腹を刺されるような一言を受けて言葉に詰まる。……ど、どうだろう。やれることはできるだけやったが、それでも超えられない壁は存在する。特に隣の少女は所謂A級ハッカーと称される天才魔術師だ。彼女の前で自信たっぷりに胸を張ることはできない。
「そこはあるって返しなさいよ、もう。そんなんじゃ心意気から勝負に負けてるわ」
「スミマセン……」
「はあ。……案外、落ち着いてるのね」
レーンに並び、配膳を待ちながらリンはため息を漏らした。係員のいるコーナーを見回したが、彼の姿は見えなかった。おそらく奥の方で存分に腕を振るっているのだろう。挨拶は後で幾らでもできるので、私は目の前に出されるほかほかの焼きおにぎりと野菜スープに視線を戻した。
「落ち着いてるって、何が?」
「何って、……まあ、あなたがそれでいいならいいけど」
含みのある言い方をして、トレーを持った彼女に続き簡易ベンチに腰掛ける。手を合わせておにぎりを頬張ると、香ばしい旨みが口の中に拡がった。品種の違いの為か、母国で食べていた米とは食感はやや異なるものの、味付けには馴染み深い醤油が使われている。砂漠の異郷の中で懐かしい香りを嗅ぎながら、私はリンの言葉の意味を考える。
「……えーと、それは教官についてのこと?」
何となく予想はついたが、友人の意図はわかるようでわからない。スープを味わいつつ、リンは私の問いかけに頷いた。
「わかっていると思うけど。アイツはあなたを一人前の魔術師に育てる為に、レジスタンスに雇われた戦闘教官。あなたが最終試験に合格したら、このキャンプを出て本職である傭兵業に戻ることが決まっている。次の契約は一年以上の長期任務になるとか聞いたわ」
「そうだね」
「ここはレジスタンスの総本山だから、難民キャンプとはいえ比較的安全な場所だけれど……傭兵として復帰したら、アイツは危険な紛争地帯に再び身を投じることになる。この意味、わかる?」
彼女の真剣な表情に思わず食事の手が止まる。私の言葉を待たずに、リンは続きを口にした。
「二度と会えなくなるかも知れないってことよ」
その直截な指摘に、私は彼女の心遣いを感じ取った。「もちろん、わかってるよ」と返し、私は皿の上に残っていたおにぎりの一部を口いっぱいに頬張る。
「でも……それはこの一年感じてた恐怖でもある。この二週間だって、教官はアフリカで危険な調査任務に当たってたわけでしょ。そこから無事にこのキャンプまで帰ってくる保証はなかった」
よく噛んで、喉の奥までじわりと滲むような甘みと旨みを味わいながら、私は彼の姿を思った。……教官は不定期にこのキャンプを留守にする。私の訓練期間がここまで延びてしまった理由はそれだ。勿論いずれものっぴきならない事情によるものなので、文句を言いたくなったことは一度もない。
けれど、不甲斐なさはいつも感じていた。私はただの訓練生で、実戦経験もない魔術師見習いだ。彼と共に危険な地へと赴くことはできない。リンはレジスタンスの古老達の名代として彼に同行することがあったが、その時も当然私は留守番だった。私もそこに無理をしてついていく身の程知らずではない。彼から訓練を受ける度に思い知らされる実力不足を思うと、そんな無謀な振る舞いはできなかった。……私にはまだ足りない。彼やリンと並び立ち戦う力も、志も。
「――教官は強いから、きっと負けないよ。だから私も早く一人前の魔術師になる。教官やリンに、安心して背中を預けてもらえるように」
「……その心は変わらない?」
「リンに何もかも背負わせるようじゃ、友人失格でしょ」
素直な願望を口にすると、リンは心配そうな表情で訊ねる。彼女はやはり、私の将来について気にしているようだった。元々幹部達は私が魔術師となり、リンと並んで活躍することを期待して教官をつけたという。だからこれは彼女の友人としての思いやり。元々ただの一般人だった私が戦場に向かうことを、リンは心配してくれている。
だが、それを言ってしまえば今の彼女だって、戦場にあるまじき年端もいかない少女だ。その双肩に全ての責任を負わせるのは間違っている。私が彼女に友人として認めてもらえているのなら尚更だ。リンは少しだけ照れくさそうに視線を泳がせた後、「そうね」と小さく呟いた。
「ごちそうさま。私、これからミーティングだから先に行くわ」
早々に朝ご飯を食べ終わっていたリンはトレーを持って立ち上がった。私はまだスープが残っているので、「ファイト」と彼女に手を振る。
「……でも、アイツに暫く会えないのは事実なんだから、思い残すことのないようにね」
彼女はそう言って、鮮やかな金髪を翻す。私は暫く彼女の去った方向を見つめ、胸の中を通り抜けていく朝の風の中に佇んでいた。
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