
命が海から生まれたというのなら、私は今母の中にいる。
私が生まれた場所であり、そして今再び生まれる前へと戻る場所。――ムーンセル中枢、熾天の檻の深い海の中。人肌のようにあたたかな海水に満たされながら、沈むことも浮き上がることもなく私の身体は揺蕩っている。不思議と息苦しくはない。心音は静かに、周囲の海洋生物たちのグラフィックに共鳴している。
とは言え。母と表してはみたものの、今ひとつその実感はない。あたたかさ、懐の深さは感じられても、月の海そのものに人格は存在しない。だから私は父も母も知らない。家族の愛や絆とは縁遠いまま、この短い生を歩んだ。
だけど、それを不幸だとは思わない。真っ当な人間の営みの中に生まれなかったのだとしても、私はもう大切にすべきものを知っている。どんな風に命を使うか決めている。
――そう覚悟してここへ飛び込んだというのに、ムーンセルはまだ私を消去しない。ならばその内にと、自分の願いを最優先で入力する。聖杯戦争の終結、ムーンセルの封印。そしてただ一人の生き残りとなる友人の確実な生還を。前者は、それが今聖杯を得た者に取れる最善の選択肢だと思ったから。そして後者は、私が彼女の友人としてできる最後の恩返しだった。彼女なくして私はここにいない。私の命はここまでだけれど、彼女の人生がこれからも続いていくのなら、後に残す憂いはあまりない。
そう一息つくも、自分の身体はまだパージされない。……意外と時間に余裕はあるようだった。ムーンセルと同化したことにより、普通の人間とは異なる時間感覚となった為なのか。それとも何か、他に問題でも起きているのだろうか。
「やれやれ。こんなことなら別に来なくてもよかったな」
……そんな憎まれ口を叩く人が誰かだなんて、見なくてもわかるのだけれど――それでも嬉しくて彼の声がした頭上を見上げてしまう。アーチャー。私のサーヴァント。聖杯に飛び込んだ私についてきてくれたらしい。私が分解されるまでの時間を、できるだけ引き延ばそうとしたのだろう。頭上を目指して泳ごうと足を蹴ると、すかさず彼の方からこちらへ潜ってきてくれる。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。どうせマスターが消えればサーヴァントも消える。結末が変わらないなら手を貸してもいいと思ったのだが……」
「分解、始まらないね」
「ああ。これでは本当に骨折り損ということになるが」
「何かあったのかな」
神の頭脳で以てしても解決に時間を要する問題が起きている。私はアーチャーと顔を見合わせて、同期したムーンセルの中を検索した。人間の手で探したなら何千年かかっても処理しきれない膨大な記録だったけれど、すぐに目当てのデータには行き当たった。――岸波白野。私というNPCの元となった人物のデータと、彼女にまつわる全ての可能性についてだ。
その記録によると、彼女は何とまだ地上で生きているらしい。アムネジア・シンドロームという脳神経を冒す感染症にかかり、治療を受けられる希望を未来に託して冷凍睡眠することを選んだという。
私は、自分自身を死者の見る夢なのだと思っていた。そして、死者は生者の世界に干渉するべきではない。亡霊が世界の理を覆すことはできないのだと、そう思ってトワイスを倒した。だが――私は結局亡霊などではなかった。たとえ純粋な命の循環からは外れていても、私は今を生きる人間だった。
とは言え、地上の岸波白野自身が直接月にやってきて、聖杯戦争の参加者――つまりこの私となったわけではない。しかし、同一の個体情報を持つ以上ムーンセルは私達を同じ人物とみなす。即座に私を不正なデータであると判断することはできない。その為、私という人物に関する様々なデータを並列蒐集し、どう処理するのが最善なのかムーンセルは一から確認しているようだった。
自分の元となった人物が生きている。そんな予想もしていなかった事実に私は驚いたが――もっと驚いたのは、その情報に付随した「岸波白野」が持つあらゆる可能性についての記録だ。
月は秒単位で枝分かれしていく運命を観測・演算し、その記録を保存する。言うなれば並行世界シミュレーターだ。月の聖杯戦争の勝者になるということは、あらゆる可能性の枝葉の中から己の望む世界を選択するということに他ならない。ムーンセル中枢が事象選択樹と呼ばれる理由はそこにある。つまり、この海の中には全てのイフの過去、現在、未来が光として閉じ込められているのだ。
たとえば、そもそも自分が男として生まれたイフ。アムネジア・シンドロームに感染しないまま生きたイフ。冷凍睡眠していた彼女/彼が、何らかの働きかけによって目覚めたイフ。そんな様々な可能性の中で、特に今ここにいる私の在り方に近いイフを、ムーンセルはピックアップしていた。
データの羅列に意識が触れるだけで、月の観測した彼女/彼の人生が映画のように自分の心の中に流れ込んでくる。そして――その映像のワンシーンには、必ず馴染み深い誰かの顔が映り込んでいた。
一目見てわかった。彼は、銘を失う前の彼だ。
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