最終試験は何も全てが実技というわけではない。8割はそうだが、あとの2割は口頭試問だ。担当教官である彼とその他のコーチ数名に、この一年で学んだ知識について問われることとなる。そちらについてもしっかり対策しておかなければならない。口では使い込んだノートの文字を音読しながら、心の中では朝に投げかけられたリンの言葉を反芻する。……思い残すことか。そう言われても、正直ぴんとこないのが素直な感想だ。
彼には本当に世話になった。リンは私の命の恩人で、大切な友人だ。だが、私に生きる術を教え導いてくれた彼は……何とも形容し難い。年齢の上でも心理的な意味でも、友人にしては遠く、親にしては近くにいる人。彼のことを「教官」という肩書き以外で呼ぶのを躊躇う理由はそこにある。名前で呼ばれる方が彼は嬉しいようだが、そうすると私達の関係がもっと名状できないものになる気がして、殆ど呼べた試しがない。
彼と過ごした日々は得難い時間だった。今のように気軽に彼と会えなくなることを寂しいとも思う。それに、リンは何も私を怖がらせようと表現を誇張したわけではない。教官は「正義の味方」だ。一人でも多くの人々の命を彼は救おうとしている。今まではその対象に私という人間が含まれていただけ――と言うのは、この一年を過小評価しているようで好きではないけれど。彼が往くべき戦場は既にここではないことも事実だ。
だから、彼と共に在る為には私が強くならなくてはいけない。私は彼と対等ではない。この一年の私は雛のように、彼の広い背中をただ追っていた。――ついて来れるか、と問われるまでもない。強いて言うならば、それが私の心残りだ。当然、あと一週間で解消できるような蟠りではないのだけれど。
「……うーん」
「あ、白野! ちょうどいいところにいるじゃないか」
心ここにあらずのままノートと睨めっこを続けていると、道を通りがかったコーチに声をかけられた。彼は私の指導教官ではないが、気さくな人なのでキャンプに来たばかりの頃からよく目をかけてもらっていた。
「こんにちは。何かあったんですか?」
「君の教官宛てに届け物なんだが、今し方急に爺さん達に呼び出されてなあ。あんまり時間がないんだ。俺が持ったままなのもなんだし、代わりに渡しておいてくれないか?」
「いいですよ。教官のシェルター、もうちょっとしたら寄るつもりでしたから」
「本当か、助かった! それじゃあよろしくな」
コーチの携えていた小包を受け取り、早足で本部に向かう彼を見送る。筆記体で書かれた宛名には確かに教官の名前が刻まれていた。送り主の住所からして、紛争地帯にいる知り合いからだろうか。……と、ここまで確認して、無意識に彼のプライベートを探るような真似をしている自分に気がつく。押し寄せる罪悪感を慌てて振り払うように、私は教官のシェルターへと足を向けた。
彼のプライベートについてはよく知らない。私と同じ極東出身であるということ。料理が得意であること。皮肉屋だが根は善人でお人好しなこと。当然それくらいは知っているけれど――肝心な彼のルーツについてはあまり聞いたことがない。
すぐに彼のシェルターの前について、私は扉をノックする。しかし彼が中にいる様子はない。試験についての質問も幾つかあることだし、このまま待っているのも手だが、さてどうしようか。逡巡しながら、取り敢えず嵩張る小包を引っかけておこうとドアノブに手をかける。
すると、ドアノブを少し押しただけですぐに部屋の扉が開いた。意外にも程がある。いつもの訓練指導時の用心深さを思うと、彼が鍵をかけずに部屋から出ることなどあり得ないと思っていた。
「教官ー、いますー?」
少し声を張ってドアを開くが、ワンルームのシェルターの中はがらんどうだ。あるのは簡素な寝床と、机に椅子、まとめられた最低限の荷物だけだ。生活感はほぼ存在しない。……まあ、このまま入ってしまってもいいか。そう判断して私はひょいと敷居を跨ぐ。彼のシェルターにはこれまで何度も招かれたことがあるし、彼の方も他人に見られてまずいものは置いていないだろう。
そうして小包を載せようと何の気もなしに机へ近づくと、隅に出しっぱなしにしてあった手帳が目に入った。
「……?」
深紅の革の手帳は少しくたびれているが、それ以外は特に何の変哲もない、シンプルな装丁だ。それだけなら大して気にも留めなかっただろうけれど――私が目を惹かれたのはそこに挟まっていた青いリボンだ。
私はそのまま、何かに取り憑かれるかのようにリボンに触れた。……普段の私であれば、決して取る筈のない行動だ。教官を慮るなら、手帳に触れないまますぐに部屋を後にするべきだった。だが私はどういうわけか手帳を手に取り、リボンの挟まれたページを開く。そこには彼の筆跡で、何かの詩句の引用らしき文章が書かれていた。
魂は全てを凌駕する。
時はつねに我々の内側にある。
命は未来の果実であり、過去への葦舟である。
「白野」
自分の名を呼ぶ声に、唐突に現実へと引き戻される。……背後を振り向くと、扉の向こうに教官が立っていた。
「ごめんなさい! 部屋、開いてたから……」
「構わない。試験の質問? それとも口頭試問の練習? ……ああ、小包を持ってきてくれたのか」
特に気にしていない様子で、教官もまたシェルターの中へ足を踏み入れる。私のいる方へ近づいた時、彼は机の上の手帳に気がついたらしく肩を竦めた。
「サプライズは失敗だな」
「え?」
「それは試験が終わった後、餞別としてあげようと思っていたお守りだ。不要であれば捨ててくれても構わんがね」
私が手帳を差し出すと、彼はそこからするりとリボンを引き抜いた。そのまま差し出されたリボンを受け取って、私は掌の上のそれをじっと眺める。綺麗なコバルトブルーのリボンだが、よくよく見ると生地の光沢は少し曇り、端には焦げ付いた痕があった。
「これは……?」
「大災害に巻き込まれて生還した時、オレが握りしめていたものだ」
どこか遠く、ここではない地を思う教官の目を見て私は何も言えないまま立ち尽くす。程なくして彼は視線を戻し、私に訊ねた。
「オレの過去について語ったことはあまりなかったな」
「……うん。出身が私と同じってことくらいしか」
「いい機会だから、この際話しておこう」
そう言って教官は椅子を指し示す。言うとおりにすると、彼は傍のベッドに腰掛けた。どうやら少し長丁場になりそうだ。無意識に背筋を伸ばしていたらしく、「そんなに緊張せずに、話半分に聞いてくれ」と苦笑される。
「大災害っていうのは、教官の故郷での話?」
「ああ。もう二十年、……もっと前になるか。年端もいかない子供だった頃、オレの住んでいた街は大災害に見舞われた。家族も友人も、皆そこで死んでしまった。オレも崩れた家の柱や屋根に押し潰されかけたが、何とか這い出して一人で炎の中を彷徨った」
できる限り淡々とした声で教官は自分の身の上を話してくれたが、その内容の悲惨さに私は思わず息を止める。――そうか。故郷はもうないと彼が言ったのは、国がなくなったからという意味だけではなく。彼を育んだ家族も友人も、もういないからなのか。
「とにかく必死だったから、正直記憶が曖昧なんだが……その後行き倒れていたオレを助けてくれた義父によると、このリボンが手に巻かれていたらしい」
「教官が自分で巻いたわけじゃないの?」
「ああ。少なくともオレの私物ではない。義父には『手当の為に解こうとしたのに、一向に離そうとしなかった』と苦労を語られたよ。だが、これを見る度に……確かにオレはこのリボンに助けられたという実感が湧くんだ」
そうして私の膝の上に載せられたリボンを教官は愛しげに眺める。――不思議と、私も他人事のようには思えなかった。懐かしい香りがする。実際に芳香が漂っているというわけではなく、柔らかな風が頬を撫でるような感覚だ。
「病院に運ばれたオレはすぐに検査を受けたが、多少の擦り傷がある以外は身体機能に問題がなかった。オレの覚えている状況……一定時間瓦礫に圧迫されていたというのが本当なら、命に関わる重大なダメージを受けている可能性もあったんだがね。『もしかすると、僕が見つける前に既に誰かが応急処置をしたんじゃないか? その痕跡がそのリボンなのかも知れない』――と、魔術師だった義父は推測していた」
「そうなんだ……」
こちらに気を遣ってか、できるだけ明るい声音で語る彼の言葉を一つ一つ、頭の中で映像として再生しようとする。けれど、やはりどれも私の想像の範疇を超えていて――確かに私もこの難民キャンプに来るまでは色々とあったけれど、この一年はそこそこ安全な生活を送っている。自分の命を守るので精一杯な、危険な状況に置かれたことはない。自分の脳天気さに無力感を覚えていると、「過ぎた話だ。君が心を痛めることじゃない」と教官は再び苦笑する。
「確かに失われたものはあまりに多い。オレが理想を抱いたのも、それを捨てられないままこういう仕事を続けているのも、全てはあの大災害がきっかけだ。……それでも今までオレがただの機構に成り下がらなかったのは、ひとえにこのリボンが心の支えになっていたからだ。――誰かが自分の未来を祈ってくれた。その祈りを受け取って、オレはオレのままここにいる。
だから、これは君に受け取ってほしい。大した量ではないが、日々オレの魔力を籠めていたからいざという時の魔力増幅器としても使える筈だ。……君の未来があたたかいものであるよう、心から祈っているよ」
教官は穏やかな面持ちで言葉を切る。彼に対して何も言えないまま、私はやっとの思いで一つ頷いた。……ああ、本当にそうだ。教官は機構などではない。正義を貫くが故に髪や瞳の色は抜け、肌は灼けつきながら、それでも彼はまだ一人の人間として私と向き合っている。それが綱渡りをするような不安定な均衡でしかないとしても――今ここにある私達の関係性を否定することは、誰にもできない。
リボンの主は彼の未来を祈った。そして今、彼も同様に私の未来を祈ってくれている。思いは連綿と繋がっている。その心を受け取って、これからも歩き続けたいと、素直にそう感じた。
「……ありがとう、教官」
ようやくその言葉を捻り出すと、ふっと息を漏らして彼は瞼を閉じる。
「その呼び方にもそろそろ慣れてきてしまった自分がいるがね、改めて聞くとむず痒いな。……さて、早めの餞別も贈ったことだし、最終試験の準備は当然完璧なんだろうな?」
「えっ」
何やらいい話らしくまとまりそうだったのに、突然脇腹を刺されて私は肩を震わせる。リンといい教官といい、どうしてこうも私の周りの人々は前触れなく痛いところを突くのがうまいのだろうか。
「君を見るのも最後になるんだ、試験では厳しい目でチェックさせてもらうぞ」
「そこは優しくお願いします……」
頭に幾つもうろ覚えな箇所やら心配な実技やらが浮かんでは消えていく。そのまま試験対策に付き合ってくれると言う彼に甘えて、私は存分に個人訓練に励んだ。いつの間にか夜も間近なことに気がついた後は、リンと共に三人で夕食を囲んだ。二週間ぶりに彼を交えてお腹いっぱいに食べたごはんは、本当においしかった。
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