──人魚は花嫁の夢を見る王子へ別れを告げ、海へと身を投げました。彼女の体はやがて泡沫と消えてゆきました。
物語は幕を閉じた。捲る頁はなくなった。鮮やかな蒼の絵の具が人魚の身体をほどき泡沫に変えてゆく。彼女の涙と泡沫が混ざり溶け合い、伝わらなかった王子への思いを健気に訴えかけているようだ。けれど彼女の体に差した一筋の朝の光は、このあまりに哀切たる絵にどこか希望のような灯を与えている。──不思議な絵。物語の主人公たる人魚は斯様にも救われぬ終わりだというのに、どうしてこの挿画を描いた人間は、彼女に光を与えたのだろう。けれど一番不思議なのは、その絵に随分と納得、いや、感慨すら得ている自分自身だった。
人ならざるものでありながら人間の王子へと憧れ、声と引き換えに陸へ上がった少女。彼女がどうして王子をそこまで乞い願ったのかはわからない。それに彼女を待ち受けていた未来は決して幸福なものではなかった。けれどそれを差し引いてなお、私(わたし)は彼女の選択に憧れているようだった。ここではないどこかへ一歩踏み出すということ。それは、この退屈で退廃的な鳥籠の中では夢見るしかできぬ──文字通り、御伽噺の向こう側へ扉を開くということのように思えて。
もう一度、はじめからその物語を繰り直してみようと本へ手をかけたとき、真白の天蓋の向こうにひとつ、影絵が浮き出ているのがみえた。
「祈荒様」
はい、と応えるのも億劫で、ただその影絵が大きくなってゆくのを見上げたまま天蓋をつと開く。まだ法衣を着ることの許されぬ彼は申し訳なさそうに私に代わって蚊帳を持ち上げる。
「お加減はいかがですか」
「……この通り、変わりありません」
変わりないとは、変わりなく悪いということを意味していたし、彼もその事実については折り込み済みであっただろう。下がらぬ微熱に断続的な咳と眩暈。冬の寒い時期になればいつもこうだ。私の命の灯はあと四年も続かぬのだという。四年。それがどれだけの長さの月日に感じられるものか、まだ齢十を過ぎたばかりの小娘にはよくわからない。今まで通り、ただ息を吸って吐いて虚空を見つめていればあっという間に経過しているものなのだろうか。それだけの事実に感慨すらおぼえない。だって私の運命は、はじめからそういうものだった。
「読んでくださっていたのですね」
表情のない私の機嫌を窺ったあと、彼は枕元に開かれたままの絵本へ視線を移す。そういえば、この本は彼が差し入れたものだったっけ。仏典やら仏教説話やらばかり与えられて文字を覚えた私にとって、絵本を読むなど今更造作もないことではあったが、「なるべく美しい装丁の本を」という彼の取り計らいは気が利いていたように思う。
「──お気に召しませんでしたか」
「いいえ。とても心に残るお話でした」
率直な感想を告げると、彼はわかりやすく喜色を示した。
「そう言っていただけるとわたしも嬉しいです。幸福な結末、とは言い難いので不安だったのですが」
「……人魚の行いはきっと無意味ではありません。それに、最後の絵はとても綺麗でした」
「ああ……これですね。わたしも、この本の中だと最後の絵が一等好きです」
共に手元の一面青い絵を眺めながら、彼は何か言いあぐねた様子で暫し逡巡したのち徐に口を開く。
「本当は、この物語には続きがあるんですよ」
「物語の続き?」
「ええ。原文の通りであれば──人魚姫は泡と消えましたが、その後空気の精となります。三百年の修行を積んだ彼女は、人としての魂を得て楽土へと参ることを許されるのです」
彼の教えてくれた粗筋を元に、私は頭の中で物語の本当の結末を思い描く。海の中でその体を解いた人魚。けれど確かに彼女には一筋朝の光が差している。この締め括りの挿画は、何らかの事情により絵本では語られなかった彼女の運命の結末を暗示していたのだろうか。……人魚のこうした行いは無意味でも無価値でもなかったと。確かにこの物語には、救いがあったのだと。
「夢のような結末ですね」
違いありません、と笑う彼を横目に私は人魚の物語を再び想像した。人ならざる人魚は人に成り、人の為に死に、軈て人としての魂を得た。ならば私は? 私がもし彼女だったらどうなるのだろう。反対に、人から人ならざるものに成るのだろうか。──脚に尾鰭をつけて、人魚として広い海を自在に泳げるのだろうか。不自由なこの肉体を丸ごと放り出して、鮮やかな青に遊び揺蕩う自由を手に入れられるのだろうか。
「この役立たずの体も、泡となって消えてしまえば……」
考えなしに口から零れてしまっていたわたしの言葉は、水を打ったような静寂を齎した。……ああ、言うつもりはなかったのにもう遅い。彼は血相を変え「そのようなことは……!」といななくように私を諌める。
「病はきっとよくなりましょう。あなた様のような方に御仏の加護が注がぬわけが……」
彼の焦りは汲み取ろうとせずとも直ぐに察せた。私の言葉にひどく申し訳なさそうに縮こまる彼の様子を見ていると、何故だか少し心が躍る。どうしてそんな風に感じるのか、当時その理由まではまだわからなかった。……とはいえ。どちらにせよ、このひとはきっと私の死の予感を拭えていない筈だ。予感しながらも言葉にはしないだけ、他の大人達よりは上等な志かも知れないけれど。結局このひとも私を救うことはできないのだもの。そのことを恨む気持ちすら湧いてこない。
だって、恨みとは自分と同じ人間に向ける感情だ。ただ私の周りを舞っていることしかできないのならば。──それは、羽虫と同じことだもの。
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