物心ついてより、随分とつまらなそうな顔をした子どもだった。両親には「もっと子どもらしくなさい」とあきれ顔を向けられ、その度に減らず口を利いては怒られたものだ。子どもとは天真爛漫な笑顔を振り撒く生き物でなくてはならない、なんて誰が決めたんだろう。……いや、昔の世界ではそれが普通で、きっとそのことに子ども自身何の疑問も抱くことがなかったのかも知れない。だとしたら昔の子どもとはとても幸せだ。今の私は、恵まれてはいても幸せを感じてはいないのだから。
やれと言われたことは大方できた。学校での勉強も、課外活動も、生来の素養が必要と言われる霊子ハッキングだって。……私は本当に恵まれていた。けれど、その事実があるからといって心は満たされない。未来は閉じている。西欧財閥とやらの恩恵を受けて、ここ極東の地もまだ何とか暮らし向きを保っていられてはいた。でも、それだけだ。これ以上世界に大きな発展がないというなら、私は何を目標にこれからを生きていけばいいのだろう? 無論、幼かった頃から自分が世界の実情を把握していたとは思えない。でも、きっと肌で感じ取っていたのだろう。
これでも、感情が欠落しているわけでは決してない。こんな私にも唯一心休まる趣味があるからだ。それは電子図書館での読書。唯一私にまやかしの希望を与えてくれるのが本の世界だった。それも、今の時代のものではなく世界がこんな風に停滞する以前に書かれた古典を私は好んだ。たとえばもし西欧財閥によって宇宙開発が中止されていなかったら、今私達は古いSFに描かれた夢のような生活をしていたかも知れない。──財閥の絶対管理社会に、唯一開発が進んだ霊子ハッキングの拡張現実。そういった意味では、今のこの世界はSF的ディストピアともいえるかも知れないが。
だから今日も私は家に帰って、最近行くようになったばかりの電子図書館へハックする。今の時代、読書というものは自分の端末にインストールしたデータを閲覧する行為だ。こうしてわざわざ図書館内に電脳体として入り、紙の形で読もうとする人は多くない。閲覧室は決まった顔の人が幾らか出入りするくらいの閑散としたものだった。よって、よく出会う人のことは大体覚えてしまう。
「こんにちは。いつもより幾分早いですね」
その中で私が最も心動かされていたのは──古典柄の着物に身を包んだ、物語のお姫様のように美しい黒髪のお姉さまだった。
「こんにちは……! はい、今日からテスト週間なので」
「あらあら、では本など読んでいる暇もないのではありませんこと?」
「いいえ、予習はばっちりですから。でも、今日は本を読みに来たというより……」
「まあ。……もしかして、私に会いに? なんて」
そうお姉さまに悪戯っぽく微笑まれたとき、我ながら普段とは比べ物にならないほど屈託のない笑顔を浮かべていると思った。もちろん、気恥ずかしさは拭えなかったけれど実際そうなのだから取り繕うわけにもいかない。すると彼女は「あらあら、嬉しいこと」と天女のような所作で自らの頬へ手を添えた。
✦ ✦ ✦
私が秘かにお姉さま、と呼んでいるその方は、キアラという素敵な響きの名であった。彼女を知ったのは今より少し前。高校生となり、霊子ハッキングの環境が整い、晴れて電子図書館に通える身となった春の頃合い。広大な図書館をきょろきょろと歩き回っている内に迷ってしまって──困っている内、声をかけられた。その人がお姉さまだ。
こちらから根掘り葉掘り訊ねるのは憚られたので、素性についてはあまり知らない。普通ならば私のように高等学校に通う年齢だが、家庭の事情で学校教育は受けておらず、私のような同じ年頃の女と話すことは殆どない──などということだけ、ちらりと聞いたことがある。
「私のお友達に、なってくださいますか」
そう囁くお姉さまはどこからどう見ても清らかな風体なのに、どこか視線に官能的な香りが燻っていて、心臓が早鐘を打つ。戸惑っている内に、彼女はにじり寄りそっと私の手を取った。
「知りたいのです。外の世界のこと……本を読むことで想像することはできます。けれど……ええ。あなたが直接語ってくれた方が、きっと本物らしくて楽しいでしょう?」
おっとりとした微笑の中に一抹の寂しさを浮かべたお姉さまに、私は一瞬で虜にされていた。事情を深くは知らなくとも、私は──私は世界で一人だけの彼女の友人だ。ならば籠の中の彼女に幸福を齎す青い鳥に、私はなりたい。
そうは言っても、私が外の世界に感じているのは退屈。倦怠感。そういった類の感情だ。こんなことを正直に語ってみせても、お姉さまを満足させることが果たしてできるだろうか。だが、それでもいいと彼女は言った。「寧ろそれこそ知りたいことだったのです」と。
「私は、世界中の人々を救いたい。老若男女分け隔てなく、全ての衆生をです」
「救う……?」
彼女が口にした言葉は随分と現実離れしたスケールだ。世界中の全ての人々を救う。確かに、その望みはひどく尊いものだ。けれどそれは、果たして彼女というたった一人の人間が成し得る偉業なのだろうか? ……けれど、同時に彼女が語るならばそれは実現できるだろう、という不確かな実感があった。
「あなたが語ってくださる通り、この世界は停滞しているのでしょう。やり切れぬ思いで日々を過ごしている人々は多くいる……私はそんな方々の悲しみを癒したい。一切の苦しみをこの身で受け止めたい」
胸に当てられた手の白い小枝のような指にすら視線が囚われる。その指はゆっくりとこちらへ弧を描いて、私の掌を包み込んだ。
「もちろんあなたのことも、私は救いたい。あなたは……少し私に似ています」
「……私がお姉さまに……?」
「ええ。幼い私は、物語に触れることで心を保っていましたから」
その言葉を聞いた時の──私の舞い上がりようと言ったら! もう、言葉に表すことなんてきっとできない。──やはり、私は彼女に出会うべくして出会ったのだ。心の底から私はそう信じ切れた。
「あなたは何を望みますか?」
けれど、お姉さまの問いに私は凍り付いてしまった。
自分でも、想像だにしていなかった。……望む? 私が、何を?
「無論、今の私はただの世間知らずの娘。ですが──」
お姉さまは誰もいない閲覧室で私の手に指を絡めたまま、私の身体を引き寄せる。私より少しだけ小さな身の丈が、今はひどく大きく見える。
「必ずや、いつかあなたを救いましょう」
そう言い切ったお姉さまは光背が輝くような、そんな眩しさで以て私を圧倒した。──その光に目が翳む。焼かれる。私という存在がひどくちっぽけで、どうしようもないくらいに彼女に不釣り合いであると、そう確信する。
「わ……私は、ただ……お姉さまが共にいてくださるなら、それでいいんです」
──けれど。それでも。私は、たとえ醜くともお姉さまに縋りつきたいと思ってしまった。だって、お姉さまは私が見つけたのだ。籠の中の彼女に、福音を齎す青い鳥。それが私なのだから。
「私──退屈で仕方がなかった。でもお姉さまに出会って初めて世界が輝いて見えた……見つけた、と思った。籠の中のあなたに、福音を齎す青い鳥。そうなりたいと思ったんです。だから私……お姉さまとずっと一緒にいたい。ここで、永遠に……変わらない日々を過ごしたい……」
私は彼女に告白することをやめられなかった。途中から、自分でもわけがわからないと思いながら。ずっとずっと、今まで懐いてきたお姉さまへの思いをぶちまけてしまう。恥知らず。そう、もう一人の私が私の背後に立って呟いている気がした。なのにやめられなかった。だって、お姉さまが本当の本当に皆を救うというのなら。こんな私のちっぽけで醜悪な欲望だって叶えてくれる筈だ。
「ええ、本当に──いつまでもこんな日々が続けばいいのに」
そう言ってお姉さまは私を優しく抱き寄せた。着物越しに触れる彼女の肉は酷く柔らかく、私の骨ばって中性的な身体とは似ても似つかない。たとえ同性であってもくらりと眩暈を覚える色香が、辺り一面にくゆっている。
ふと、彼女が私を誘うように唇を軽く突き出す。その潤んだ水蜜桃に、気がつくとむしゃぶりついていた。ああ──私、誰にも恋なんてしたことがないと思っていたけれど。この胸の動悸を恋だというなら、私は。
お姉さま。あなたを独り占めしたい。
ちゅう、ちゅうと蜜を啜って離すと、お姉さまの瞳は潤み、頬はほんのりと珊瑚色に上気している。念を押すようにもう一度口づけると、彼女の方から咥内に舌が差し込まれた。そのままちろちろと舐め合っている内に、彼女は器用に己の帯をくつろげた。すす、と下の襦袢の紐も器用に解いて、袖を振り落とす。下履きと白足袋以外何も身に着けていない彼女の身体を前にして、私は震えていた。彼女の瑕一つない白い膚。豊かにまろび出た乳房。なだらかな丘のような腹、形のよい脚。剥いた梨のような瑞々しい彼女の身体に、私は釘付けだった。
「大丈夫。鍵をかけていますから……」
導かれるままに、私はお姉さまの身体を弄んだ。自分の指が沈み込んでいく乳房の柔らかさに溺れた。彼女の嬌声に耳を聳て、しとどに溢るる彼女の蜜を啜った。爪を短く切り揃える癖があったことにこんなにも安堵する日はこの先来ないだろう。蜜を孔から掻き出すと、お姉さまはあられもない声で啼いた。振り乱した彼女の射干玉の黒髪が扇のように広がっているのを、私はただ獣のように見下ろしていた。
✦ ✦ ✦
次の日、お姉さまは図書館に来なかった。その次の日も、そのまた次の日も。ずっとずっと、私は待っていた。他の常連客にも、小夜啼き鳥のAIにも訊ねたけれど、その行方はようとして知れなかった。
──きっと、私は間違った。お姉さまに告げる願いを。私は──この世界を退屈だと、そう思っていた。でも、私だけは。私と、私が見出したお姉さまだけは違う。世界が停滞していることに気がついて、それを憂いているのだと。でも、私もまた結局、退屈な人間でしかなかった。だって、何を願えばいいのか私は思いつかなかった。私は停滞しか知らない。だから──停滞を。お姉さまと永遠にここにいることしか願えなかった。
何て、愚か。そう自嘲してもお姉さまは戻ってこない。お姉さまはきっと、私の知らない世界へ飛び立った。籠から自らの羽根で飛び去った。──いいえ。籠の鳥だったのは私の方。幸福の青い鳥は、私ではなくお姉さまだったのだ。
ならば。私もまたこの籠から飛び去ろう。そうしてきっといつか、もう一度あなたを見つけてみせる。わたし自身の願いはまだわからないけれど。わたしが眩しいと思えるのは、もうお姉さまだけなのだから。
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