そして私は人魚になった - 3/3

 知りたかったことを知ったのち、私は小鳥を放して再び広大な本の海を泳ぎ彷徨った。……無軌道にあちこちの書棚を訪れていた筈なのに、最終的に辿り着いたのは慣れ親しんだ童話がずらり配架された書棚だった。人魚姫、燐寸売りの少女、雪の女王、赤い靴、醜い家鴨の子。その隣には小夜啼き鳥。あのAIの名が何であったのか、その題目を目にして漸く私は理解した。随分と薄いそのソフトカバーを手に取ってみる。内容は既に頭に入っているけれど──その結末をもう一度、確かめるように。

「ああ、やっと見つけた! あまり離れないでくださいと言ったではないですか」

 彼の声がこの背を突くのは今日で二度目だ。振り向いた先から随分と慌てた様子の彼がこちらへ駆け寄ってくる。急がなくても私はもう泡となって消えはしないのに。姿が見えなくなって心配したこと、この広い書架の海を探すのにとても手間がかかったこと。ああ、意外とよく喋るひとだったのだなと一晩寝た後にはすぐ忘れてしまいそうなことに気を留めながら、私は自分より上背のある彼の顔をぼんやりと眺める。

「……祈荒様?」

 怪訝な面持ちの彼に私は、先程まで自分が調べたことを詳らかに話すことにした。
 そも、私のこの病は世間で何と呼ばれているのか。不治の病と聴いたが、本当に治療方法は確立されていないのか。この命は、やはりもうすぐ終わりを迎えてしまうのか。小夜啼き鳥のAIの司書機能と検索機能によって、私は程なくして真実を知った。──結論から言えば。私は死なない。この病は適切な治療を受ければ快復できる、ただのありふれた病魔でしかなかったのだ。

「では、快癒の見込みがあると……!」

 ええ、と頷くと彼は目を見開いたのち、直ぐに満開の桜のように破顔する。そうして朗らかに──今考えてみれば当時の私が声をあげて笑わなかったのが不思議な程に、酷くおかしなことを口走った。

「よかった……やはりあなたを電子の海に案内して正解だった! 祈荒様のような貴い命が続いてゆくこと以上の喜びは、今のわたしにはありません。御仏のお導きに感謝を……」

 違う。
 あなたのその考えは、絶対に間違っている。

 私は誰かに救われたのではない。私は私自身に救われたのだ。燐寸売りの少女のように孤独だった私が、人ではなく人魚となって、死を祓う小夜啼き鳥に出遭った。自らの病が何かを調査し、治療可能であるか精査し、その為に何が必要か自分一人で突き止めた。だって、知ろうとすればこんなに簡単なことだった。不治と謳われあんなに憐れまれ続けてきた私の病は、外の世界では何でもない病気の一種でしかなかった。……そうと知る機会は今まであなた達には幾らでもあった。なのに、あなた達は何もしなかった。そのことはいい。羽虫に既に期待はしていない。だけれど、あなたのその認識は浅慮に過ぎる。間違っている──あなたが、あなた達の信じる御仏が、私を救ったのでは、決してない。

 滑稽だ。何て矮小な意識。あなたも結局、あの小さな王国の中で無知のままあることをよしとする民の一人に過ぎなかった。……だからそう、突き放してしまえばいいものを。このままならぬ性根から成る欲望は、むくむくとわたしの全身を覆いつくし、執拗にこの胸を、腕を、腹を、股座を締め付けている。

 私は──御仏に私が救われたと彼が信じ込んでいたことに、酷い興奮を覚えていた。私を救わなかった癖に、私が存えることを本気で望み、その希望が果たされたことに心から安堵している。そして自分がその導きの端緒と成ったことに少なからず自尊心を刺激されている。彼は私を、愛しているようだった。その蜂蜜のような事実が我慢ならない。──いいえ。我慢など、もうしたくなかった。

「……ねえ。私ひとつ、試してみたいことがあるのです」

 手に持っていたソフトカバーの頁を閉じて、そっと書棚へと戻す。友人のように近しく思っていた物語たちから翻した身の先には、読書室が佇んでいる。この電脳図書館は、他人に邪魔をされることなく本の世界へ没頭することが可能な個室の読書スペースを謳い文句の一つとしているようだった。私の足取りに導かれて何もわかっていない彼は雛鳥のように私へと追従する。

「何でしょう、祈荒様」
「貴方様は、これまでずっと私のことを愛してくださいましたね」

 彼とわたしだけが部屋に入ったことを確認して、私は彼を普段よりじいっと、熱を帯びた視線で以て見つめてみる。愛、という言葉に少しだけ彼の頬の下の血の巡りがよくなったことに気が付いた。……ああ、本当にそんなところまで現実を再現するのか。あの小鳥の言った通りだ、と興奮の最中どこか冷めた声が私の耳の裏を撫でつける。

「な……そ、それは当然です。祈荒様は貴い方ですから……」
「今まで気が付けなくてごめんなさい。ですが気が付いたからには、その愛に報いなければなりません」

 初夏を迎えれば十四になる私のからだは、つい先程まで死を待つばかりだったというのに少しずつ丸みを帯びた形へ変状していた。すり足で寄る私に、後退る姿勢だけ見せてはいても閉じかけの扉を再び開こうとはしない彼の手持無沙汰の掌は、随分と情けなくて愛らしく見えた。

「体は、正しく治療を受けさえすればじきによくなりましょう。でも私……それまで我慢できません」
「わ、わたしは未だ不徳の身、祈荒様と儀を行うのは……」
「それは私も同じですわ。──ですから。今はただ、御仏の教えとは関係なく──私は貴方様に愛されてみたい……」

 そう、二者合一など何の意味も成し得ない。他人と手を取り合って仏と一体化するなど間違っている。だって、あなたは人間ではないのだから。

 ならば在る道はただ、溢れる六欲に溺れるのみではなかろうか。

「貴方のすべてを、私に下さい」

 喉仏に這わせた指から、彼の生唾がごくりと嚥下されてゆく震えが伝わる。合図はそれだけで充分だった。程なくして彼は、私から目を逸らさぬまま後ろ手で扉を閉ざす。かちゃりと鍵の掛かる音が聴こえたと同時に、闇の覆い被さった視界からじわりと、人肌のぬるい体温が染み出す。その暗がりのなか、もう見る必要もない夢を薄ぼんやりと想像しながら、私は彼の腕の欲するままに自分の身を海へと委ねた。

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