ACT.1/名も無き幼い詩 - 2/2

 ――欠けた夢、とは違う夢を、見ている。

 かの賢者トワイスの見せた記録、生前の原風景と似て非なる地獄。理不尽な大災害に襲われた都市は崩壊の一途を辿っている。建物は崩れ、電柱は折れ、道は瓦礫で覆われている。人間の焼ける臭いが充満し、助けを求める微かな声は炎の燃えさかる音にかき消されていく。そんな悪夢の中で、私は無防備に佇んでいる。
 何故自分がここにいるのだろう。どうしてここへ来てしまったのだろう。ふわふわと現実らしい心地がしないまま、それでも必死に霧を払うように頭を振って考える。焔に囲まれ、崩れていくビルの巻き上げる粉塵に包まれながらも息苦しさを感じない。命を脅かされているという感覚が胸に降りてくることがない。……比喩ではなく、私は本当に夢を見ているのだろうか。

「た……けて、……だれか……」

 弱々しい声が耳に届いた気がして私は振り向く。その先の、崩れた建物の屋根の下より人の手が覗いていた。声の主であろうその手の傍へ、思わず駆け寄る。

「大丈夫ですか……⁉」
「……、…………」

 変わらず呻き声は瓦礫の隙間から響いているが、私の言葉に反応する様子はない。確認よりも救助の方が優先だ。そう判断して引っ張り上げようとすると、私の手は空を切る。何度試してみても変わらない。まるで私だけがこの世界に映し出された影のように、はたまた亡霊のように、するりと触ろうとしたものを通り抜けていく。そうしている内に声は聞こえなくなった。
 目を閉じて暫し黙祷した後、私は立ち上がった。ぼんやりとしていた自我が漸く輪郭を帯び始め、ここに転移する前後の記憶をはっきりと思い出せるようになる。だからこそ、私がこの世界にいる意味がますますわからない。
 わからないけれど――このまま立ち止まっていることもできない。きっと自分の足で探さなければ、その意味を理解することはできないのだろうから。

 そうして地獄の中を私は歩く。生きている身体、死んでいる身体、先程のような救助を求める悲痛な声。手を取ろうと何度も試したが、いずれも結果は同じだった。これでは本当に亡霊じゃないか。……いや、事実今の私は、おそらく亡霊とそう変わらない存在だ。だから何もできないのは当然なのかも知れない。それでも――私が持つ記憶に欠落がないというのなら。本当に何の意味もなく、こんな悪夢を彷徨うなんてことがあり得る筈がないのだ。

「……困ったな」

 無意識にそう呟く程には無力感を味わった頃、私は視線の先に小さな人影を見つけた。子供だ。一人の子供が歩いてこちらに向かっている。

 その姿をはっきりと視認した瞬間。私は、全てを理解した。

 赤銅色の髪をした、年端もいかない少年だった。一見すると大きな怪我はしていないが足取りは覚束なく、一歩一歩何かに耐えるような顔をして地を踏みしめている。……彼が耐えているのは身体の痛みか、それとも心の痛みか。或いはどちらもか。私は唇を噛みながら彼を見据える。――程なくして、私は彼と目が合った。

「いきてる……」

 私をまじまじと見た後、少年は蚊の鳴くような声を零した。

「私が見えるの……?」

 彼の琥珀色の双眸は確かに私自身を映し出していた。恐る恐るそう問うと、彼は不思議そうな顔で頷く。

「あんたは、……幽霊?」

 その問いに返答する前に、少年の傍の瓦礫が僅かに揺れたのを垣間見て、私は走り出していた。今の私が誰にも触れられない、誰も助けることのできない亡霊であるというのなら、この行動に意味はない。彼を助けることなどできはしない。だけれど、そんな理屈以前に足が勝手に動いていた。そして――どういうわけか、私は彼の手をしっかりと取ることができた。そのまま自分のいた方へ少年を引き寄せて庇うと、少年のいた場所に瓦礫が滑落した。間一髪で間に合ったらしい。

「幽霊、じゃない……いきてる……」

 ひたすらに歩かねば、と我慢を続けてきたらしい少年は、私の身体に包み込まれたことによる安心感か、その場に崩れ落ちる。それを支えるように私も地面へとしゃがみ込んだ。いよいよ精根尽き果てたのか、力がうまく入らないようだったが、彼の身体からはまだ人間としての体温を感じる。……私のこの身体も、彼にとってあたたかいのだろうか。

 私は彼に触れたまま、その身体の内部構造を透かし視る。普段の私であれば到底できない芸当だったが、予想通り今の私にはその力が与えられているらしい。正確には機能を借用しているといったところだろうけれど。
 彼の身体の状態はすぐに理解できた。目立つ傷はないように見えるが、内部の筋肉細胞は既に壊死が始まっていた。おそらくここにやって来る以前、彼は暫く瓦礫の下敷きになっていたのだろう。相応の重量の落下物等から圧迫を受けて筋肉細胞が壊死すると、血液の中に毒となる物質が蓄積してしまう。故に救助されても、外傷がないからと放っておくと毒が全身に回って命を失う――クラッシュ症候群と名付けられた、災害時によく見られる死亡ケースだ。
 朦朧としているだろう意識の中、少年はそれでも何とか瞼を閉じないよう耐えている。痛々しく目に映る彼を地に横たえて、私は胸のリボンを解いた。こういうやり方で合っているのかはわからない。けれど、後はこの身体に与えられた機能がバックアップしてくれる筈だ。

 ……これが私の見ることができる、最後の夢だと言うのなら。私が口にした、叶えるつもりのない願いの果てだと言うのなら。私には果たすべき責任がある。貫き通したい祈りがある。心からそう思った。

 握りしめ過ぎたせいか血がこびりついている少年の拳に、包帯代わりのリボンを巻き付けてやる。コバルトブルーの布地に彼の血の赤が滲んだ。程なくして、私の中に残っていた祈りが光となって流れ込んでいく。

「……痛くない……なんで……?」

 視えていた少年の内部の損傷が元通り治癒していく。それと同時に、私の体も次第に形を保てなくなっていく。

「あんた……は、オレの……」

 何か私に向けて言葉を発しようとしながらも、少年の意識はゆるやかに途切れた。閉じられた彼の瞼と規則正しい寝息に安堵しながら、私は消えかけた指で一筋だけ少年の頬を撫でる。

「……おやすみ」

 こうして私の願いは成った。

 お前のエゴに意味などない。――そんな、誰でもない誰かの囁きを私は振り払えない。そもそもこの光景は私が今際の際に見た夢に過ぎず、現実の彼の運命に影響を及ぼすことはないのかも知れない。
 それでも、私があの時口にしたわがままが目の前に在るというのなら、手を伸ばさないのは間違っている。少年がこの後誰かに助けられるのだとしても――今自分の目の前で苦しんでいた彼を、そのまま見捨てることはできなかった。そんな投げ捨てられるような正しさを謳うくらいなら、消えることのない間違いを刻む方が余程いい。

――! ――――――!」

 遠くから見知らぬ人の声が聞こえる。声の主はどんどんこちらに近づいてくる。……何を言っているかまでは聞き取れないけれど、きっと誰かが少年の存在に気がついてくれたのだろう。
 いつの間にか、周囲の火の海をかき消すかのように雨が降り始めている。透けた私の身体を通り抜け、雨粒が彼の煤けた顔を濡らしていく。命の危機は脱したとはいえ、このまま放置されたなら身体が冷えてしまっただろう。その前に人に見つけてもらえてよかった。安堵すると、より一層消滅の速度が速まった気がした。

「……どうかあなたに、優しい未来が訪れますように。その終わりが、あたたかいものでありますように」

 消滅に身を任せながら、今はそれだけを思ってただ祈る。
 これは神さまに叶えてほしい願いではない。あなたという存在への賛辞と、これからあなたが往くだろう道程への祈り。届くことを期待しないままに海に流す、瓶詰めの手紙のようなものだ。
 だけれど、そんな一方的なメッセージも――もしかしたら、いつかあなたに拾われる日が来るかも知れない。そんな奇蹟を諦めないままでも、いいのかも知れない。だから今は、この海に託そう。生きていた証リボンだけをあなたに残して、私は還ろう――あるべき場所へ。

 少年の静かな吐息。あたたかな体温に、安らかな寝顔。――そんな優しい光が、この私の中に刻まれた最後の記録となった。

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