
ブーゲンビリアの咲き誇る生け垣を通り抜けた少女の視界に広がったのは、滑らかな白の砂浜とトルマリン色で満たされた海原のハイコントラストな絶景だった。黒い岩礁に打ち上げる波はぱらぱらと、宝石のように砕けては消えていく。その様を一目見て彼女が抱いた感想は、ここが以前見た海よりも更に本物「らしく」造られているということ。この世界において海水の一滴、白砂の一粒、天上にあしらわれた青のスペクトルに至るまで、全ては霊子で構成された再現データだ。
普通の人間ならば、その事実をわざわざ意識することはない。だって、もうそんなのは当たり前。オーバーカウント1999以降、地球の有様は一変してしまった。先細りしていく一方の資源を前に世界は停滞し、人間は現実ではなくバーチャルに活路を見出した。こうして既に失われた自然の再現データにアクセスし束の間のバカンスを楽しむことは、2029年を生きる人々の娯楽の一環となっている。旅先では非現実を思う存分楽しまなければ意味がない。よって、こんな風に世界に張られたテクスチャをわざわざ分析する少女は異端だ。少女自身、己が異端であることを知っていた。そうだとしても、彼女は様々なことを知らなければならなかった。――それだけが、今の自分に与えられた使命なのだと頑なに信じていたから。
「すごーい、キレーな色の海!」
「早くサーフィンしようぜ」
「あたし後でかき氷食べたい」
「くらげいる! ねえパパ、くらげー!」
すれ違う恋人達や学生と思しき青少年、子連れの家族の会話を並列処理し、分析する。人間達は概ねインプットされた知識通りに行動している。個々は初めて出会う存在でも、種や群として見ると今までのサンプルケースとそう変わらない。目新しさのない結果に小さくため息をつきながら、少女は日陰を探す。彼女の褐色の肌は太陽光の吸収に優れていたし、生まれた場所も赤道に近い緯度に在る為、暑さには慣れているつもりだ。だがこの再現空間は想定以上に湿度が高い。サウナのような暑さの中を彷徨うより、木陰で冷たい水を飲みながら身の振り方を考えた方が、確実に有意義な時間を過ごせる。そう結論づけた彼女は、歩きつつハッキングで紫苑の長髪をゆるく結わえる。
「なあ、あの子……」
「フリーっぽいよな」
「いってみようぜ」
そこに背後から段々と近づいてくる青年の声が三人分。明らかに自分をターゲットとしている様子を気取って少女がくるりと振り返ると、彼等は「うわっ」と声を上げて動揺を見せた。
「何かご用でしょうか」
「……あ、あのさ、君はまだ客とってないよね」
眼鏡のつるに手を添えながら少女が問うと、その機械的な様に狼狽えつつもグループの内の一人が笑いかけた。彼に倣い、固まっていた後の二人も軽薄な笑みを取り戻して少女にじりじりと近づいていく。
「そこら中探し回ったんだけど、どの子も予約済みでさあ。とりあえず、そこのホテルのラウンジで一杯飲もうよ」
「チップも弾むし、優しくするから。いいよね?」
分析するまでもない。青年達は自分のことを勘違いしている。しかし、少女が訂正する前に青年の一人が彼女の肩を抱き寄せ、そのまま傍のホテルへ向かって歩き出してしまう。……致し方ない。少女は着ていたワンピースのポケットから端末を取り出して、一言二言呟いた後、まずは自分に密着している青年にハッキングを仕掛け――
「おーい! ごめん、待たせた!」
不意に、人懐こい声が少女の鼓膜を震わせた。彼女よりも先に周囲の青年達が声のした方へ振り向く。
「えっと……あんた等、彼女の知り合い?」
遅れて少女が踵を返した先には、妙な風貌の青年が両手にソーダ水の注がれたグラスを持って立っていた。白と赤銅色が混じった短髪。パーカーを羽織っているためそこまで目立たないが、よく見るとその肌には不自然に日焼けをしたような褐色の痣が走っている。
「……え、人間⁉」
「男連れかよ……」
「あー……っと、すんません」
彼と少女を見比べた後、青年達はみるみる意気消沈した様子でその場を離れていく。開放感にほっとしながら、少女はじっと居心地の悪そうな青年を観察した。
「……えっと。余計な真似したんだったら悪かったな」
「いえ。私だけで彼等と意思疎通をはかった場合著しく時間がかかったと推定します。迅速かつ穏便に事態を収束させたあなたに感謝を」
「そっか、よかった。……でもあんた、さっきあいつらに直接ハッキング仕掛けようとしてたろ。幾らここが電脳空間で、正当防衛になるったってどうかしてるぞ。下手を打って向こうの魂が焼き切れたら目も当てられない」
やれやれ、と肩を竦めながら青年は少女にソーダ水の片方を差し出す。その意図がわからず彼女は首を傾げた。
「どうして私にこれを?」
「そりゃオレが二つも飲むより、あんたが飲んだ方がいいだろ」
電脳空間での飲食は娯楽であって生命維持に必要な活動ではない。そういう意味ではどちらが飲もうと結果的な損得は変わらないが、少女は彼の言う通りにグラスを手に取った。結露して艶の出た硝子の向こうに青いソーダ水が閉じ込められている。水中に発生した無数の泡は水面を目指し、やがてはじけていく。
「……出会ったばかりだというのに優しいのですね。人の心を持たない私ですが、他人に己のリソースを割くのを優しいと形容することは知っています」
少女はそのまま付近にあったベンチに腰掛ける。椰子の木の下で陽射しを避けつつストローからソーダ水を啜ると、ぱちぱちと小さく音を立てて泡が喉を通り過ぎていった。
「人の心を持たない……?」
「私はホムンクルスです。この空間に用意されたNPCではありませんが、純粋な人の営みによって産まれた人間でもない。だから彼等も私を愛玩用のドールと勘違いして声をかけたのでしょう」
訝しげな顔を浮かべ、自分の座っている方へ近づいてきた青年に事実を告げると、彼はたちまち口を引き結んで眉を顰めた。その反応の新鮮さに少女は瞬きを繰り返す。ホムンクルスの製造は師の類い希なる才能と技術の結晶だ。だが彼の渋い表情を見るに、青年はその技の妙に驚いているわけではなさそうだった。
「……あんたがホムンクルスだったとしても、心がない機械ってわけじゃないんだろ」
そう呟きながら、こちらの表情を窺うように視線を投げる彼に少女は頷く。
「そうですね。私の師の定義ではそうなります」
「何が言いたいんだ?」
「私は完成品ではありません。失敗作でもありませんが、言わば試作品です。ですから心という機微が搭載されていないのです」
彼は戸惑いながらも、蕩々と語る少女の隣に腰掛けソーダ水を啜る。
「心があるかないかなんて、自分で判断できるものかね」
「……わかりません。私は、師の言葉を反芻しているだけです」
「その師……って人があんたを造ったのか?」
「ええ。私は師の言葉に従った結果、ここに辿り着きました」
そう呟いて、少女は己のメモリに刻まれたレコードを脳裏で再生する。――つい一ヶ月ほど前の話だ。師は一人でチェスを繰り返していた彼女を自室に呼びつけて、椅子に腰掛けたままため息をついた。
『……私はあなたに心を容れることができなかった』
師の伏せられた瞳を縁取る睫毛を眺めながら、少女は微動だにしないまま彼女の言葉をただ受け止める。師はこの話を口にする度、その面差しに悲哀を浮かべていた。その正確な理由は少女にはわからない。
『加えてあなたの命は短い。最終到達目標である月の聖杯戦争への参加もかないません。あなたが心を得るために残された時間はあまりにも少ない』
少女は試作品だった。師曰く、演算機能は既に調整が終わっている。あとは身体の耐久値を他の人間並みに底上げできれば、師の偉業は完成する。――もし師の余命が残り僅かでなかったならば、彼女は「その先」を目指していたのだろう。造りあげたホムンクルスに心を容れる未来を夢見ていたのだろう。
『ですが……あなたを産み出した者として、あなたを最後まで諦めたくありません。世界を知りなさい。人間を知りなさい。美しいと思うものを見つけなさい。その先に、あなたの新しい存在意義が生まれるかも知れません』
師の言葉の意味を完全に理解できたわけではない。だが、己の存在意義を更新できる可能性を提示された以上、探さなくてはならないと少女は思った。自分の体が活動限界を迎えるまでに、次なる完成品に向けて残す価値のある記録を。たとえ奇跡的に心を得られたとして、その感情が次代に受け継がれることはないけれど。それでも――師がそれを望んでくれたならば、やれることはやって命を終えたかった。
それから程なくして、少女は地球の失われた再現空間にアクセスするようになった。自然に触れるためではない。観光に訪れた人間のデータを幅広く蒐集し、心の機微について理解するためである。霊子ハッキングは、身体が弱く長旅に向かない少女が多くの人間と触れ合うことのできる、唯一の手段だった。
「……未だに、意味を半分も理解できていませんが。師は私に『世界を知りなさい。人間を知りなさい。美しいと思うものを見つけなさい』と命じました。その命令に従うことが、ただの徒労だったと結論づけたくはありません。――少しでもいい。あなたのことを、教えてはくれませんか」
少女は何も言わず隣でソーダ水を啜る青年に向き直る。先程と比べ僅かに光を強めた彼女の瞳をみとめた青年は、中身が半分程になったグラスを両手で握った。その手の中から汗のように、涙のように、結露の水滴がグラスを伝って砂浜の上に吸い込まれていく。
「……オレの過去は、人に語り聞かせるような楽しい話じゃないが。それがあんたの為になるなら聞いてくれ」
そう前置きして、青年は暫し足下へ視線を落とす。それから僅かな間黙り込んだ後、彼は静かに口を開いた。
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