「もう二十年近く前の話だ。この再現データの海が存在した極東の国で、大きな災害が発生した。街中が炎に包まれて……誰も悪くなんかないのに、ただそこで生きていたというだけで命を奪われていった。オレはその大災害の生き残りだ」
――青年の語る大災害の様子は、それは悲惨なものだった。瓦礫の下から絞り出すような声で助けを求める人々。一酸化炭素を吸い込みすぎて、無傷のまま道端に倒れた老人。もう息のない子どもを抱きながら、この子だけでも助けてと逃げ惑う母親。その中で、まだ小さな子どもだった彼は一人生き延びた。家族も友人も何もかも失いながら九死に一生を得た彼は、義父に引き取られて新しい自分として生きることになった。
「けど、どんなに時間が経ってもオレは……そのまま忘れるなんてできなかった。毎晩大災害の夢を見ながら、オレは生き残って『しまった』んだって強迫観念が消えなかった。だから――『こんな悲劇はもう二度と起こさない。オレは多くの人を助ける正義の味方になる』って、本気で心に誓った」
魔術師の義父を真似て、それまでやったこともない魔術を身につけたりしたよ、と苦笑する青年の横顔を眺め、少女は逡巡する。……彼の身体は癒えても、心に負った傷はそのまま残り続けていた。青年の告解を聞いた瞬間、彼がサバイバーズギルトに苛まれていると少女はすぐに気がついた。それは事件や事故で生き残った人間が覚える罪悪感。心がないと自認する彼女だが、与えられたデータから人間の精神状態を推測することはできる。青年が抱えている罪悪感は、他者の介入によって容易に慰められることのない、根深い問題であるように思えた。
「こんな悲劇はもう二度と起こさない」、「正義の味方になる」。……まるで御伽噺の筋書きのような理想を心に抱くことは簡単だ。けれど、その実現のために人生を捧げて行動し続けることは、ただの人間にはどだい無理な話。だが――そうでもしないと正気ではいられない程に、彼は追い詰められているらしい。
「なんだけど、さ……ある時期を境に、大災害の夢とは別で、他の夢を繰り返し見るようになったんだ」
――けれど、少女がその言葉を聞いた瞬間。軋み歪んでいた筈の彼の姿が、僅かに輪郭を取り戻したように見えた。
「他の夢……?」
「起きた後は顔も名前も思い出せない。今のオレよりは年下の……男だったような、女の子だったような……曖昧だけど、とにかく『誰か』と出会う夢だ。オレはその『誰か』を守るように戦っていた」
青年の鋼の瞳が太陽光に当てられて、鈍く飴色に輝く。彼の視線の先にあるのは途方もない海岸線。けれど、彼が本当に見ているのはきっとこの海原ではなく夢で見た「誰か」の顔だ。
「そいつは武器を作って戦えるオレよりも更に弱い、ただの無力な人間だった。生きるための力を求めたそいつにオレは応え、戦った。……その時オレは、確かに『誰か』の命を救ったんだ」
彼の語る夢の断片に少女はじっと耳を傾ける。彼の成果は世界から見てみれば、とるに足らない小さな出来事でしかないだろう。多くの人間をできる限り救おうとする青年の理想からも外れている。けれど、多くの人間を救うということはそのために少数の弱い人間を切り捨てるということ。彼が本当に救いたいと思ったのはそんな少数の罪のない無力な人々のことではなかったのか。
「最初はただの都合のいい夢だって忘れようとした。だけど何度見てもその夢の終わりはあまりに眩しくて、とてもただの夢だとは思えなくて……要するに、オレは自分の抱える矛盾から目を逸らせなくなってしまったってわけだ。
特にここ最近は夢を見る頻度もかなり高くなっててさ。相変わらず目が醒めても覚えてるのは断片的なイメージだけ。でも……起きた時に感じる胸の熱が、これがただの夢とは違うって叫んでる」
そう言って困ったように微笑む青年を少女は見上げる。暫し逡巡した後、彼女は彼に一つ提案した。
「あなたの星を、詠みましょうか」
「星?」
「私には占星術の心得があります。普段は専ら己が人間を知るための手段として用いているのですが……あなたの抱える胸の蟠りが解れるならば、私に見えるものをお伝えすべきだと考えました。あなたの過去、現在、そして未来の道ゆきについて」
青年は少女の申し出に少しばかり面食らったようだったが、彼女の真剣な眼差しを黙って受け止めた後「頼んでいいか」と頷く。少女は青年の手を取って、静かに目を閉じた。
その瞬間彼女の脳裏に広がったのは、数多の星が散らばる紺碧の天空だ。その中から彼の運命を表す星を選び出し過去の道筋を読む。……青年の星は、彼女の見たことのない軌道を描いていた。
彼の言葉通り、その星は二十年ほど前を境に、隕石にでもぶつかったかのように運行の方角を変えていた。彼の遭遇したという大災害が原因だろう。けれど、少女が驚いたのはその後の星の軌道だ。青年の星はとある時点から急に観測予測のパターンを外れ、彷徨うように弧を描いていた。その放物線の終着点がどこなのか、幾つかの可能性を予測できても断定することは困難だった。
占星術によって未来を完全に知ることはできない。少なくとも少女にそこまでの機能はない。けれど詠んだ星――個々人の未来の可能性を感じ取ることはできる。故に、少女は自分の命の終わりが近いことを事実として受け容れていた。少女の星はそのような定めにあった。
だが、青年のそれは違った。彼に未来がないわけではない。ただ、道筋を一つに絞ることができない。星の囁く言葉にはまとまりがなく、数多ある可能性は全て等価値だ。
「……まるで、運命の軛から外れたような……」
再び瞼を開き、青年から手を離して少女が口を開いた瞬間。びゅうと強い風が吹いた。この空間には自然らしさを演出するために、ランダムで風を送る機能もプログラミングされている。何かに気がついたように、青年は顔を上げた。それにつられて少女もまた視線を空へと移す。
上空に舞っていたのは、白いガーデンハットだった。それを少女が目に留めた時、既に青年はベンチから腰を上げて走り出していた。上背のある彼が容易に帽子を手にしたと同時に、「すみませーん」と浜辺の向こう側から声がした。
一人の女性が走ってくる。シンプルな麻のワンピースを着て、栗色の髪を腰まで伸ばしたアジア人だ。アジア人の多くは実年齢よりも幼い顔立ちだと聞くが、それでも目の前の二十代らしき青年よりは世代が上のようだ。彼が手にした帽子の持ち主なのだろう。少女が再び彼へと視線を移すと、――青年は時を止めたかのように息を呑んでいた。
「ありがとう。海まで飛ばされちゃったらどうしようかと思っちゃった」
女性は息を上げながら、目を見開いている青年へ無邪気に頭を下げる。「ああ……いえ」と上の空で帽子を渡しながら、彼は女性を食い入るように見つめた。
「……どこかでお会いしませんでしたか?」
彼女の手に帽子が渡った瞬間、青年が口を開く。その瞬間、ようやく青年と女性の視線がまっすぐに交わった。
「え? ……ごめんなさい、初対面じゃないかな。もしアバターが変わってるならわからないけど……」
表情を失くしたままの青年に困った顔を向ける女性の後ろから「お母さーん」と、子供の甲高い声が響く。女性の走ってきた方へ視線を向けると、水着を着た少年が手を振っていた。女性は長い髪をふわりと揺らしながら、「今行くよー!」と振り返る。――その姿を見て、青年は漸く微笑みを取り戻した。
「……人違いだったみたいです。引き留めてすみません」
そう言って首を振る青年へ再び視線を向けた女性は、屈託のない笑みを浮かべながら帽子を被り直す。
「気にしないで。帽子、取ってくれて本当にありがとう」
青年に再び頭を下げた後、女性は踵を返し少年の待つ方へと歩き出す。青年は彼女の後ろ姿を見つめ、暫く動かない。
一部始終を観測していた少女は、思わず女性を視線で追って彼女の星を詠んだ。……彼女の星は青年と比べると、何の変哲もないありふれたパターンの軌道を描いている。彼のように人生を変えるような大きな事件に巻き込まれることもなく、定められた運命を背負うこともなく、ただ生まれ、生きて、死んでいく無辜の民。そして青年と彼女の星が交わるのは、後にも先にも今この瞬間以外ない。
にも拘わらず青年は、何か感じ入った様子で目を細め拳を握っている。
「何を考えているのですか?」
少女は立ち上がり、女性の行ってしまった浜辺からいつまでも視線を離そうとしない青年の傍で問う。知らなければならない。いや、知りたいと思った。青年は暫しの沈黙の後、「……うまく言えないけどさ」と漸く少女の方を向いて呟いた。
「オレの夢の輪郭が、少しだけはっきりした気がする」
そう言って彼はもう一度視線を移し、目を細めて眩しそうに笑った。太陽は、彼の背の後ろで輝いているのに。もうあの女性はどこにもいないのに。
(……非合理的です)
けれどもそう思ったと同時に、少女は初めて人間を「美しい」と感じた。造形や構造それ自体の比率が、ではなく。青年の顔を覆っている感情という不確かなテクスチャに、彼女は美を見出した。それは、今この瞬間にしか見られないもの。キャンバスにインクを落としてできた模様のように不可逆のもの。その一瞬の交錯こそが、一つとして同じもののない人間の魂が描くきらめきなのだと――少女は初めて理解した。
青年と少女がベンチの上に置きっぱなしにしたソーダ水からは、いつの間にか炭酸が抜けていた。海と同じ色をした水面から、最後の泡がひとりでにはじけて消えていった。
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