Ⅰ エクストラ=スーパームーン - 1/2

 雲の立ち込める北半球の天幕は鈍色の夜に染まっている。けれどもそこに訪れているのは静かな安寧の眠りではなく、無慈悲で無秩序な殺戮だ。世界が真っ黒に塗りつぶされていく。築き上げた文明が破壊されていく。恐怖で理性を失い、散り散りになって逃げ惑う人間達をそれヽヽは待ってはくれなかった。

 乾いた平野に生えた草はまばらで、ただ駆けていくだけならば容易い。けれど何もない、ということはどこかに逃げ隠れすることもできないということだ。だから走り続けるしかない。息を切らしている間に咽喉の奥に鉄の味が広がっていく。唾液を嚥下し自分をどうにか誤魔化して、私はただ前へひた走る。あれヽヽはもうすぐ傍まで迫ってきている。今ここで全てを諦めるわけにはいかない。彼女を囮にしておきながら私がむざむざ殺されては何の意味もない。
 筐体のイヤリングのスイッチを押すと、向こうで彼女があれヽヽと戦っている音が聞こえる。通信状態が悪いのか、それとも彼女とあれヽヽのぶつかり合うノイズが酷いのかわからない。わからないけれど、繋がっているなら彼女にも聞こえる筈だ。私は声を張り上げる。

「ラニ、まだ無理そう!?」
『すみません、あともう二分だけ耐えてください!』

 彼女──ラニもまた、私程ではないにしろ息の上がった状態で応答する。彼女にここまで余裕がない様子を私は初めて見た。私を見つけて導いてくれたラニはいつも冷静沈着で、どんな状況に置かれてもさして表情の動かないまま、何の苦もなさそうに全てを解決してくれていた。そんなラニに頼りっぱなしではいけないと、私もこの一年と十か月程彼女の役に立てるよう頑張ってきたつもりだ。
 だが、彼女のそんな必死な声を聞いて動揺してしまったのは──私もまだまだという証拠だ。そもそも、超A級ウィザードでホムンクルスの彼女と平々凡々な一般人として生まれた私を比べること自体が間違っているのかもしれないけれど。それでも、彼女の足手まといになってばかりではいられない。
 だが、そうは言っても彼女が錬金術によって編んでくれた使い魔達もそろそろ限界だ。今はまだぎりぎり防御壁として役に立ってくれているけれど、彼女の言った二分間耐え切ってくれるかどうか。ラニの錬成してくれた脚力強化ブーツのおかげで何とか走っているけれど、いい加減魔力が持たない。そうなれば私は丸裸も同然だ。追い付かれたら最後、あれヽヽは惨たらしく私を破壊するだろう。

「うぁっ」

 そんな余計なことばかり考えていたせいか、何もないところで脚が縺れた。石に躓いたわけでもないのにどうしてこんな時に! 盛大に転んで服の上から膝が、無防備な掌がざりりと地面に擦れる。骨が折れたわけじゃなし、すぐ立ち上がって再び走り始めなければならないというのに、その痛みの衝撃に数テンポ行動が遅れる。……その一瞬。使い魔がぱきりと音を立てて崩れた。
 最悪だ。最悪の想像をしたら、その数秒後に最悪の展開が待っているなんて。敷いていた防御壁が崩れ、隙間からあれヽヽが──謎の物質に汚染され、黒々と巨大化した動物達が見える。

「ァ────」

 唸り声を上げて、それらヽヽヽは突進してくる。ただ生きているものを、私を破壊するために。……嫌だ。じんじんと痛みを訴える膝に言い聞かせて、私は再び走り出す。嫌だ。私はまだ死にたくない! そう心の中で叫んでも死への恐怖は拭えないまま、たちどころに心臓を締め上げていく。

「ァ──────!」

 脚力強化が切れた数秒後、伸ばしっぱなしにしていた髪の毛が後ろから引っ張られる。なに、と後ろを振り返る間もなく、髪を軸にして体を引きずり回された。再び身体が地面に打ち付けられた衝撃と、容赦なく砂利が顔に引き攣れた痛みに声を出すこともできなかった。……何とか四つん這いになって起き上がったけれど、それ以上動けない。多分骨が何本かいかれた。

「は──はぁ────」
「ァ────」

 巨大化した獣──おそらく元は犬であっただろうそれらヽヽヽは遠吠えを上げ、獲物である私を囲む。捕食されるのではない。破壊、されるのだ。……わかっていたことだが。この動物達は飢えて私を追い回していたのではなかった。壊し、ばらばらにして、もう二度と再生することのないように──私は捕らえられたのだ。

(……どうして)

 諦めろ、と誰かが囁く。もう無理だ、と首を振る。ああ、確かにこれじゃゲームオーバーだ。ラニも間に合わない。潔く死を受け容れて、一刻も早く瞼を閉じた方がいい。

『あなたには、返さなくてはならない恩があるのです』

 だけど、そんな客観的な状況把握にも勝る記憶の声が魂に鳴り響く。それからすぐに走馬燈のように、私の一年と十か月の記憶が脳裏を駆け巡っていく。

 私は──岸波白野の名以外一切の記憶を持たない人間は、冷凍睡眠状態から三十年の時を超えて目を醒ました。私が目を醒ましたのは本当に奇蹟にも近い出来事のようだった。何故なら私が生まれ育った東洋の国は既に亡く、この体が冷凍保存されていたのは故郷の廃墟の中であり、二十年以上誰の管理の下にも置かれていなかった。近い将来残された予備電源を使い切って、緩やかに死んでゆくことを運命づけられていたようなものだ。けれど──そんな私をどういうわけか見つけてくれて、この通り目醒めさせてくれた少女がいた。それがラニ=Ⅷだ。
 彼女は自分をアトラス院から来た錬金術師でありホムンクルスである、と名乗った。記憶をなくす前でも恐らく魔術の世界に縁のなかった私にとって、それはほぼほぼ理解の及ばない自己紹介だった。だけどラニを一目見た瞬間から、私は彼女を信じてしまっていた。だって、目が醒めて初めて私が映した世界は──彼女の心底ほっとした、嬉しそうな表情だったから。
 返さなければならない恩があると言って、ラニは私をコフィンから連れ出した。その言葉の続きを促すのは何となく憚られたまま──私は、彼女の手によって再びこの世界に生まれ落ちた。

 ……ああ、やっぱり嫌だ。私はまだ死ねない。私は私についてまだ何も知らない。記憶はなく身寄りもなく、この命以外何も持っていない。だけど、何故かそんな私を目覚めさせてくれた人がいた。続きの頁をくれた人がいたのだ。

「死んで……たまるか……!」

 だからまだ諦められない。諦めたくない。私は──ここで終わりたくない!

「ほう。その腑抜けた顔でよくぞ言った」

 そうして身を固くした瞬間。知らない声が鼓膜を揺らし──立ち込めた黒雲が風にあおられて、満月が姿を現した。

 ざん、と刃が何か束を削いだ音がした。途端に引っ張られていた頭がふっと軽くなる。それが私の後ろ髪を斬った音だったことに気がついた瞬間、私を引きずり回していた生物がどっと背後で倒れる音がした。
 尻もちをつくようにして振り返る。中天には普段に比べて随分大きな月が蒼白く輝いている。その光の下で──黄金の鎧を纏った男が一人、私を見下ろし笑っていた。

「最早問うべきことは何もない。たとえ幾星霜の隔たりが我等の間にあろうとも、我が見定めるその星の瞳に陰りはないと見た。──であれば剣を取れ、我が契約者よ」

 恐ろしい程に整った造作の男は、仰々しい黄金の鎧と同じ色をした髪を立てて、魔性とすら感じられる赤い眼をぎらつかせながら私に語り掛ける。手に持っている細身の剣で、私の髪を断ち獣を倒したのだろうか。彼の言葉の半分も理解できないまま目を瞬かせていると、急に左手の甲が火傷したように疼き始めた。手元を見ると、さっきまでなかった筈の赤い刺青のような刻印が甲に浮かび上がっている。……一体これはどういうことなのだろうか。だけど、こんな状況でも一つだけわかることがある。

「……助けてください!」
「よかろう」

 余裕もへったくれもない私の精一杯の叫びを聞いて、その男は満足そうににやりと口角を吊り上げた。次の瞬間彼は動けない私を担ぎ上げ、およそ人間とは思えない距離を軽々と跳躍する。「わっ」と思わず声が漏れるが、「舌を噛みたくなければ黙っていることだな」と頭の上で彼の声がした。私を取り囲んでいた巨大生物達に意志は感じられないが、彼という異分子が登場したことについて警戒心は懐いているらしい。「ならばこちらのものだ」と彼は私を抱いていない手をすっと天上へ掲げる。
 その瞬間、私は信じられないものを目にした。彼の、私の頭上から無数の黄金の──亜空間に繋がる門のような孔が開き、そこから数えきれない程の武器が浮かび上がったのだ。

王の財宝ゲート・オブ・バビロン──!」

 彼の号令により、武器は一斉にあの巨大生物達に向かって射出される。体中を串刺しにされ、獣達は次々と倒れていく。
 彼の威容は、まさに圧倒的という言葉が似つかわしい。私がラニから与えられた使い魔で何とか凌いでいたこの状況を、全部ひっくり返してしまった。……あり得ない。とても人間とは思えない。驚き言葉を失っていると、そんな私の雛鳥の如き様子を彼は笑った。

「斯様な小物相手との戦闘で逐一驚いていては先が思いやられる。疾く理解せよ。貴様が手にした剣の力を」
「……あなたは魔術師ウィザードなの?」
「はっ、それくらいの知識はあるか。いざとなれば魔術師キャスターのふりもできようが、今の我にクラスなどない」

 キャスター、クラス……聞き慣れない言葉だ。どういう意味なのかと訊ねかけて、私は遠くに人影を視認する。

「白野さん……!」
「ラニ!」

 使い魔を浮遊させながらこちらへ駆けてくるラニは、大した怪我もなく元気そうだ。さっきは苦戦している様子だっただけにほっと胸を撫で下ろす。だけど彼女の方はというと、私が五体満足で生きていることへの安堵と同時に、私を横抱きにしている男性に対し驚いている様子を隠せていない。

「そんな、まさか……!?」

 人の悪そうなニヤニヤ笑いを浮かべて沈黙を守っている男を見上げて、あり得ないとでも言いたげにラニは唇を震わせた。

「あなたは──英雄王ギルガメッシュ!」

 ラニの口走った言葉を聞いて、私は目を瞬く。……英雄王ギルガメッシュ。記憶を失っている私にはぴんとこないが、それが彼の名前なのだろうか。英雄の王? 今世界を牛耳っているという西欧財閥の王とは別の?

「久しいな、ラニ」

 しかもギルガメッシュはラニと旧知の仲であるようだ。……どういうことなのだろう? アトラス院にまつわる人物、ということだろうか。

「そんな──星の導きとはあなたのことだったのですか。でも、どうやってここに……」
「話は後だ。この場を離れねば彼奴等に襲われるぞ。我は構わんが、貴様等がもたんだろう。特に白野は貴様の治療が必要だ」
「……もっともです。ここから一キロほど離れた場所に縁故のある施設があります。そこならある程度の安全が確保されるでしょう」

 そんなやり取りを幾らか交わした後、ギルガメッシュは脇に抱えていた私をちゃんと持ち上げて、胸の中に抱き直してくれた。──何だか意外だ。正直、第一印象ではそんな丁寧な扱いをしてくれるような人には見えなかったのだが。どちらにせよ今の自分では歩けないので、痛む肋骨や腕を庇いつつ身を委ねる。そうして彼はその人間離れした脚力で、ラニは強化した脚でその施設とやらの方へ向かい始めた。
 頭の中がぐるぐると渦を巻いている。わからないことだらけだ。ギルガメッシュとは誰なのか。ラニは彼のことを知っているのか。何故──私のことを助けてくれたのか。だけど今口を挟めば、また舌を噛みそうになるかも知れないのでやめておく。……そもそも今置かれているこの状況自体私には理解が追い付かないのだけれど。これも全て、ラニが頻りに口にしていた「星」のせいなのだろうか。
 そうこうしている内に疲労感と強い睡魔が押し寄せる。そのさざめきに勝てないまま、私は彼の徐に意識を飛ばした。

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