意識が昏い虚へと落ちていく。
いや、正確には本当に落ちているのかもわからない。ここには足場もなければ重力もない。浮遊しているのかも知れないし、はたまた本当に真っ逆さまに自由落下しているのかも知れない。瞼を開けても閉じてもそこには無間の闇が拡がるばかり。思うように手足を動かすこともできず、ただ私という自我が徐々に閉じていく。
終わるのだ、と思った。このまま身を任せていれば、私はいずれ私という心を失いただの抜け殻になる。……それもいいのかも知れない。だってその方がずっと楽だ。このまま現実から目を背けて、夢すら見る余白もなく、暗がりに埋もれていく方が。
──けれど、心の底に未だ燻る残り火がある。たとえ踏み潰されれば消える炎だとしても、私の心はまだ輪郭を失っていない。どうしてだかはわからないけれど、私は漠然と──微かな希望という奴を大事に懐いたままでいる。
もう終わりにしてしまえばいい。初めから私の生に意味はない。今更目覚めたところで私には何もない。記憶を失い、家族も友も住む場所も失って、世界は行き止まりを迎えている。どう足掻いたって、この手で掴めるものは何もないのかも知れない。
それでも、と『もう一人の私』が叫んでいる。今この手中には微かな火種が煙っている。……ああ。この燈火は私自身だ。何を馬鹿なことを、と心底思う。もう体は動かない。後は心を手放せば全部終わりにして楽になれるのに。『私』は何かを必死に叫んでいる。そして私が「私」である以上、この焔を握り潰すことはできない。
だから──最後に耳を澄ました。『私』は一体何を叫んでいるのか。何の為に諦めきれないというのか。瞬間、微かに膚を焦がすような熱を帯びて焔が花開くように赤く光った。
(──忘れない)
『面白い』
そのとき、私の目を醒ますように知らない男の声が私を貫く。一声聞いただけでではない。傲岸不遜、傍若無人の限りを尽くした嵐の具現。そんな、あり得ない程に規格外の男の眼差しが、今の私を貫いている。
『自らを喪っておきながら、なお忘れ得ぬものがあるか。小さいが、それは確かに強い欲望の音だ──』
彼の継いだ二の句を耳にした途端、自我が『私』から乖離して空間を離れていく。暗闇に溶けかけながらも僅かにもがいている『私』を、私は成す術なく見下ろしている。
ああ、このままでは弾き飛ばされる──そう思ったと同時に、私の意識は目を潰す程の眩い光に包まれた。
✦ ✦ ✦
「白野さん?」
……いつもと同じくラニの声で私の意識の糸が繋がれた。未だ重い瞼を開き、ぼんやりとした目で世界を見渡す。天井を覆っていたのは僅かに眉根を寄せながら私を覗き込むラニの顔と──その後ろで腕を組み立っている黄金の男の姿だった。
「魘されていました。傷はまだ痛みますか」
「……ううん。大丈夫」
何となく先程の夢については口にする気になれないまま、身体を起こし手足を動かしてみる。もう痛くない。本調子とは言えずとも、彼女の治療はきちんと効いているみたいだ。埃っぽい空気に咽せかけながらも、獣達に襲われる心配は一先ずない場所にいることに少しだけ安心する。ここは放棄された倉庫の一角のようだった。
「貴様が眠っている間に大方の事情は把握した。岸波白野。過去を持たぬ我がマスターよ」
ギルガメッシュは愉快げに私を見下ろし、不思議な名前で私を呼んだ。マスター? それは主人、という意味で合っているのだろうか。だとしたら私は彼の主人? わけがわからない。彼の主人なんかになった覚えはない。そもそも、私はいつ彼に名を名乗ったのだっけ。そこまで考えて「あっ」と思わず声が漏れる。
「契約者ってそういうこと……なの?」
「貴様にしては察しが早いではないか。その手に刻まれた令呪こそが証だ。貴様はあの大地──かつて我の治めたウルクのジッグラトがあった場所で我を召喚した。……ま、と言っても貴様の力だけでは到底叶わぬ話だが」
褒められているのか貶されているのかよくわからない言い回しで語る彼につっこむ間もなく、私はラニと出会ったばかりに断片的に聞いた話を思い出す。ラニが二年前に参加した月の聖杯戦争。そこでは魔術師達が一騎ずつ人類史に刻まれた英雄達を召喚し、何でも願いを叶えるという聖杯をかけて命を散らし合ったという。
「じゃあ、あなたはサーヴァント……!」
「如何にも。とは言えマスターである貴様に服従しているつもりは毛頭ない。その令呪、つまらぬことに使うと言うのであれば即刻貴様を殺し契約を断ち切るまで。ゆめ忘れるな。ああ、それとも今から二画我に捧げておくか? 我と貴様が対等であり、意見が食い違えば対立する自由を持つ誓いとして、な」
ぎらり、と魔性の赤い瞳を刃物のようにちらつかせてギルガメッシュは私を煽る。背中に冷や汗が伝っているのがわかる。……彼は本気だ。私が彼にとって気に入らない態度を取れば、先のあの獣たちのように容赦なく処断されてしまう。その冷たい事実に鼓動が早くなりながらも、私は落ち着いて彼の一言一句を噛み締める。
「そ……んなことはしない。助けてもらって感謝してるし。あなたのことはよくわからないけど、私があなたより偉いとか、全然思えないもの」
それは私の今の素直な気持ちだ。ギルガメッシュがどんな人かは知らないが、王というならそうなのだろう。さっきの超人的な攻撃とか全身から溢れ出るカリスマオーラとかからして、どう見ても人間という種を超越していると思う。だけど──そのままじっと彼の眩い顔を見つめていると、「何だ」とギルガメッシュが私を訝しむ。
「……ちょっと意外。あなた、私と自分が対等だって言ってくれるんだ」
そう口にした時、彼の眉が僅かに動いた。その傍らでラニが妙に肩を震わせているのがわかる。……何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。だけど、本当のことだ。こんな色々と規格外で、平々凡々な私などには目もくれなさそうな人がどういうわけか、私を見下すのではなくただ一人の人間として扱ってくれる。それは何だかすごく有り難く、嬉しいことのような気がして。
「……貴様のその軟弱ぶりを見るに、令呪なしに此度の戦は勝てまいよ。令呪の献上を求めぬのは我からの慈悲と知れ」
つまらなそうに私から視線を逸らすギルガメッシュに「はあ、どうも」と礼を言いながら、彼の言い回しに違和感を懐く。此度の戦いと彼は言った。なら、またラニの言っていた聖杯戦争とやらが開かれるのだろうか?
「私からも訊きたいことは山ほどあります。英雄王」
沈黙を決め込んでいたラニが口を開いた。彼女からギルガメッシュに対する敵意はないが、彼女が現在の状況を極めて稀なことだと感じているのはひしひしと伝わってくる。そんなラニの様子に触発されて、私はこれまで彼女と歩んだ日々を脳裏に描いた。
目醒めてから数か月は本当にめまぐるしい日々の連続だった。初めは夜道に出遭った野犬の群れに吠えられるだけで驚いていた。だけどそう時間が経たない内に、何故か自分が今の世界の殆どの国々を率いる西欧財閥から指名手配されていると知ってからは、そんな呑気な面を下げてもいられなくなった。
幸いにもラニの生まれたアトラス院──もうラニ以外誰も生きた人のいない場所だけれど──は、西欧財閥にもそれに対抗する中東の解放戦線にも与さない第三勢力圏だ。ゲリラに紛れて西欧財閥からの追っ手を撒きながら、エジプトまで何とか逃げ延びた私達は暫くの間穏やかな生活を送ることができていた。
事が動き始めたのは一年近く前になる。錬金術以外に占星術も得意な彼女が見た西方と東方の星辰──それらは大災厄の発生とそれに対抗する希望を示していた。相反する二つの意味がどんな結果を齎すかはわからない。けれど、ラニ曰く『放っておいたら世界はとんでもないことになるのは間違いない』のだという。
かたや自分が何者であるかも実感がない私と、かたやホムンクルスであり人間としての成長の途上にあるラニ。私達二人ぼっちでできることなんて限られている。でも──
『じゃあ、どうにかしないとだね』
根拠なんかどこにもないのに、そう口にしてみたら途端、全てが何とかなるような気がした。随分と大それた考えだと今でも思う。でも、「そうなる」と知ってしまった以上滅びの未来を受け容れることは私にはできない。
世界を救う──なんて大言壮語を宣うわけじゃなくて。ただ単に、私は死にたくなかったのだ。第二の人生の門出を果たした今の自分を失いたくない。目の前にいるラニと一緒に、見たことのないものを見て知らないことを知りたかった。なら、自分にできることをしようと思っただけ。そんな私の放言を聞いたラニの、瞠った瞳の大きさが今も忘れられない。
『……ええ。人間とは、斯くあるべきです』
だから、私達はアトラス院から出て外の世界に足を向けることにした。と言っても相変わらず私は指名手配中なので西欧財閥には近寄れない。それに星が希望を示した方角は西欧財閥の支配圏ではなく、中心人物が死んでしまったことにより崩壊の一途を辿っているという中東レジスタンスの活動圏の方角だ。私達は素性を隠し、難民キャンプに紛れながらラニの見た「星」を捜し続けた。
そして、彼女の予知の兆しが現れたのが一ヶ月程前。物資補給の為アトラス院に戻る途中、アフリカ大陸北西部──とある商品売買の国際シンジケートが持つ拠点に立ち寄った時のことだ。私達は、あり得ないものを見た。異様なまでに手足が巨大化した──人間を、都市を、世界を破壊する災厄の獣達を。
「知っているというのなら教えてください。この世界で一体何が起ころうとしているのですか。あなたは何故ここに召喚されたのですか」
ラニにならってギルガメッシュを見上げる。……事情はわからないけれど、私も同じ気持ちだ。この一ヶ月で、世界各地に混乱が広がっている。何故生き物が突然巨大化し、人を襲い始めたのか。これが凶星の導きだというのなら、世界はどうなってしまうのか。彼はふっと息を吐いた後、一際大きく明朗な声を上げた。
「いいだろう。ではその命の緒を質に納めたつもりでよく聞け。──我は英雄王ギルガメッシュ。ムーンセルめにレガリアを献上されし人類の裁定者である」
そうしてギルガメッシュは肩の上に黄金の門を開いて、そこから何か小さくて丸いものを取り出した。……指環だ。彼の鎧と同じく黄金色で、目を凝らすと細かな意匠が施されている。
「レガリア……?」
突然の聞き慣れない単語に物々しい空気を察知しながらも、よくわからないのでラニの方へ視線を流す。ラニも全てを理解したわけではなさそうだが、彼女なりにギルガメッシュの言葉を咀嚼している様子だ。
「王権……今のあなたは、ムーンセルに任命された王ということですか」
「勘違いするな。それでは我がムーンセルの助力を得て王としての力を得たも同然ではないか。幾千年経とうと我が我である限り王としての威光は変わらぬ。本来この指環は我にとって何の価値もない。似た品は蔵に幾らでもある故な。だが、これはただの指環ではない。我へ命を賭した嘆願の証である」
なるほど。ギルガメッシュの王としての自負が誰かに証明されなければならないような曖昧なものでないのは、出会ってすぐの自分でも何となく伝わる。自分のふんわりとした自意識に比べ随分と強烈だなあと思いながら、ふと疑問がよぎった。確かラニは以前「ムーンセルは月に存在する巨大な人類観測機であり、そこに意志はない」なんて言っていた。意志がないのに嘆願なんてムーンセルがするのだろうか? 首を傾げていると、ラニが助け舟を出してくれる。
「誤解させてしまったかも知れませんね。ムーンセルは公正な観測機であり続けるために人間のような自由意志を持ちませんが、自己保存の原則は存在します。危機を回避するためならどのような措置も取るでしょう」
「安全装置みたいなもの……? ムーンセルにとっても今の状況はまずいってこと?」
私の拙い解釈を肯定も否定もせず、ギルガメッシュはただニヤリと口角を吊り上げる。だがその数秒後、指環をもう興味もないといった様子で再び蔵の中に投げ入れて、彼は唐突に表情を失くした。その怜悧な眼光に思わず息を呑む。途端に彼が人智を超えた高次元の存在なのだという事実を全身の血が訴え始める。そんなの、きっと初めからわかりきっていたことだったのに──今更ながらぞくぞくと背筋が怖気立つ。張り詰めた緊張感の中、「端的に言うぞ」とギルガメッシュは再び口を開いた。
「地球は、近く滅びる」
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