夜明け前の空の色をしたセーラー服の袖から白い手が覗いている。掌の中にはパラフィン紙に包まれた淡く光る色とりどりの宝石。──いや、この表現は最適解ではない。目の前のそれはただ飴玉と呼びならわされる砂糖の塊に過ぎないはずだ。同時に見出された幾らかの言葉の中、より合理的だと思われる解答を選択できないだなんて、まだ情緒値が不安定なのだろうか。ふと湧いた疑問符の優先度はしかし、目の前の事象の処理よりも低く設定されている。微かに抱いた違和感──誤作動の可能性を無視したまま私は視線を栗色の虹彩へと移す。
「飴、ですか」
「うん。ちょっと食べきれなくて」
岸波さん──先輩の綺麗な滑舌が耳を心地よく撫ぜる。普段より心なしか見開きがちの瞳、微かな高揚の混ざる声音。先輩が現在大変良い精神状態にあるということは、スペックの大幅に落ちた今の私でも一瞬で精査可能だ。入手先は判別出来ない。言峰神父の売店の新商品だろうか。限られたサクラメントを必要以上に菓子へと用いるのはよくないという思考ルーチンは、度重なる戦闘で疲労した彼女は合理的な判断を下せなかったのでは、糖を摂取し疲労を緩和するべきだという軌道へ切り替わる。
「桜もどう?」
「ありがとうございます。いただきますね」
どれを選択するのが最善か法則は決められていなかったので、ランダムに何の味とも判別のつかぬような宝石、いや、飴玉を、彼女の掌に触れないよう注意深く選び取る。最近行ったデバッグも甲斐なく、カットしたはずの体温の上昇が止まらないということを彼女に悟られたくはない。ただのシステムでしかない私を人のように扱ってくれる彼女に、私が人でないことを知らしめる真似をしては彼女の気を害することになるだろう。そっと触れただけでぱりぱりと音の鳴る包み紙が私の指の熱を少しだけ冷ます。その奥から漏れ出る色のついたあめだ、ま、……いや、宝石、は、まるで私に与えられた三つめの瞳のように、室内灯の光を受けて輝いている。
「ふーん。英雄王も何考えてんのかしら。女に与えるなら飴じゃなくて宝石の一つや二つ……まあ、アイツはあなたのことを女とは見てないか」
「凛、何気なくひどい……」
「流石、ミストオサカ。あなたのデリカシーのなさは何度観察しても大胆で感慨深いです」
英雄王ギルガメッシュ。先輩の──私の主観では先輩「を」従えているようにも見えるサーヴァントの名を唐突に聞いて、思考演算が僅かに乱れる。彼は彼女の使い魔。彼女だけの守護者。であるのに、この月の裏側へ落とされたはじめ、私はどうしても理論値では表せない不安の感情を彼に向けていた。
聖杯戦争のマスターである先輩だが、彼女の左手に令呪は一画も残されていない。そのことを必要以上に不審がる理由は、ない。先輩の月の表側でのサーヴァントはギルガメッシュさんではないからだ。検索機能にロックが掛かったままであるため具体的な情報は閲覧できないが、少なくとも月の裏側の住人であった彼ではない。だから今、先輩は凛さんやラニさんと同じ状態だ。BBの手によってサーヴァントと分かたれ、ここにいる。
──けれど。だからこそ腑に落ちないのだ。令呪を一時的に失っているはずの彼女と英雄王が何故契約を交わしているのか。サーヴァントは令呪によってマスターに従えられるもの。まして、彼のような規格外のサーヴァントがただ現世の漫遊と称してただのマスターの一人でしかない彼女との契約に応じるものだろうか。彼が私のようなAIではとても理解に及ばない境地にある故、だろうか。
『どうしてあなたが岸波さんのサーヴァントに?』
先輩が虚数の眠りから目覚める直前、レオ会長が王にそう問うていた。
『僕は聖杯戦争中の記憶を粗方失っていますが、岸波さんのサーヴァントがあなたでなかったことくらいはわかります。ですから彼女は、本来のサーヴァントとはぐれた後にあなたと偶然出会い、マスターとなったのでしょう。ですが彼女には令呪がない。そんな岸波さんに、あなたのようなサーヴァントがそう契約を安請け合いするでしょうか』
淡々と客観的事実から推測される疑問を述べる彼の一歩引いた後ろで、白鎧をまとう騎士──ガウェインさんもまた不審の眼差しを隠しきれていない。一般的に礼儀正しいと評価される彼の珍しい面持ちは、印象深い記録として残されている。『察しがいいな』と酷薄に笑った英雄王は視線だけでなく身体ごとこちらに振り返り、顎をなでて何か思案する素振りを見せた。
『だが、貴様らは表ではあの者と敵同士であったのだろう? 我はあやつの味方ではないが──雑種のいぬ間に我自ら種明かししてはつまらん』
先輩の置かれた状況について己が話すのは憚られる。そう言って英雄王は片目を閉じてこちらを窺う。確かに、聖杯戦争で彼女の立場が不利になる事実をサーヴァント自身がわざわざひけらかす意味はない。だが、彼は彼女の味方ではないと公言した。……そのことが随分と自分の中で引っかかってしまった。
『なに、貴様らの寝首を刈り取りなぞせん。我は終始この戯画の傍観者として在るだけだ』
『……そうですか。では、この件についてはこれ以上立ち入りません』
言葉を切った会長に再び背を向け部屋を出ていく彼の、まばゆい黄金に威圧される。──間桐桜はシステムである。彼を畏れ敬うべきロールにはいない。けれど、先輩の命はこのおそろしいひとの手中に収められているようなものだ。その推測から導き出された薄気味の悪さが、暫くの間胸の内に立ち込めていた。
「何よ、本当のことじゃない」
凛さんの言葉でふと、回想から引き戻された。ちょうど視界に入った先輩の生徒会長の腕章に、レオ会長の不在をありありと突きつけられる。
「女に宝石は幾らあっても足りないわ。実際私なんかは魔術に使うわけだし」
「確かに宝石は魔術的な観点から見ても有用です。しかし、礼装に依らなければ基本的な魔術行使もままならないミスハクノにとって価値があるのは、気分の上で疲労回復の見込める飴玉であると判断します」
「……事実だから耳が痛いなー……」
頭を抱えてラニさんを見遣る先輩に「ま、あなたにはそうよね」と凛さんは肩をすくめる。
「体力仕事にも頭脳労働にも、気分転換と少しの糖分は必要か。……飴なんて久しく食べてなかったわ」
彼女も先の私と同じく遠く過ぎ去った時を思い返すように、片手でキーボードを叩きながらもう片方で包み紙を器用に開けて飴を口に放り込んだ。濃度の高いピンク色をしたそれはいちご風味のものだろうか。ラニさんも作業を止めて丁寧に包み紙を開き、ぶどう色をした飴玉を暫く見つめて口にもってゆく。グレイト、と呟く彼女の平坦な感情グラフが一瞬僅かに変動を見せた。「喜んでもらえたならいいんだけど」と先輩が控えめに小首を傾げる。
「あの……これはギルガメッシュさんから?」
尋ねると、先輩は私の方を振り返ってそうだと頷いた。
「戦闘がうまくいったらくれるの」
それが嬉しくてエネミー倒してたら、本当に食べきれないぐらいもらっちゃった。そう言って仄かにはにかむ先輩を見て、少しだけ情緒値が揺らいだ。その理由について多方面から検索をかけたが、追尾は困難をきわめた。内部構造の崩壊が不規則に生じている為だろう。早まったままの鼓動を懐きながら、手の中に握ったままだった薄紅色の宝石、を、丁寧に白衣の内ポケットの中へとしまう。
暫く後、私が彼女不在の生徒会室で倒れる瞬間まで、繰り返し頭の中で呟いていた。彼女がくれたものを、無碍にしてはならない。ずっと大切にしまっておかなくちゃ。彼女は私にとって──ひいてはムーンセルにとって有益な存在だ。私が彼女をこうして依怙贔屓するのは、極めて合理的な判断なのだ、と。
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