静まり返った校舎はいつも通りメンテナンスへ移行した。私以外のAIやNPCは強制スリープ、凛さんやラニさんも順次休息を取ってもらっている。私は今夜限りの校舎のロケーションの変更のため、廊下に出て演算を開始していた。
こうしていつもの通りの日々も明日──先輩達の認識上での明日であって、ここでの時間に変化はないのだが──で終わりだ。私のデータベースのレコードを振り返ってみると、僅かに感情値が揺れる。……人間のような感慨などAIの自分には必要ないのに、こうして校舎の窓越しに茜色に染め上げられた、自分と同じ名を持つ花を眺めていると、樹より通じる迷宮へ赴く彼女の後ろ姿が自然と思い起こされる。それだけでこんなにも胸が苦しくなる理由を、私は説明することができない。
私もBBと同様狂っているのだろうか。そんな不安が頭を過ぎるが、今となっては原因を解明したところで詮無きことだ。可能性が低くとも、先輩があの子を打倒する可能性は存在する。彼女が成し遂げたならば、私がすぐに全てなかったことにしてしまえばいい。ムーンセルがAIに侵食された事実自体をなくす。その例外処理を行うことが今の〈私〉を放棄するのと同義であっても、立ち止まることはできない。先輩を守る。生かす。──それがムーンセルのシステムとして、正しい在り方だ。
気がつくと、無意識に胸元で手を組んでいたようだった。左胸の内ポケット。散っていった毒蜂のあの子のように皮膚感覚が低下している今でも、そこにある飴玉を感じ取れる。彼女の少し不器用な笑顔のように、優しい色の宝石。結局宝物として今まで仕舞いこんだままだった。今の私なら、口に含んでもゆるされるだろうか。逡巡して、ポケットに手を差し入れた。この決断を知れば、彼女は反対するだろうけれど。それでも、今は先輩からの勇気が最後に欲しいと願った。
それなのに。
「……嘘」
宝石は、形をほどいて汚く溶けている。
無残にも包み紙に貼り付いた飴玉は、私の掌の上で鈍く光を反射している。……そう、だ。あの日の私は体温が異常に高くて、それで──消え物である飴玉にムーンセルの自己修復プログラムは適用されない。こごった形も、熱が籠れば溶けるのが当たり前だ。全ての点が線で繋がって、坂から転がり落ちるようにグラフが揺れた。
何て、ばか。自分の浅はかな思考回路を糾弾してもし尽くせない。これじゃあAIの癖に鈍くさいと罵られても仕方がない。演算能力が落ちているなんて問題ではない。私は宝物を大事に仕舞っておくことすらかなわない欠陥品なのか。
規定値を越えた感情から涙が零れそうになって、何とか目元を拭いながら顔を上げる。上げると、廊下の角に、今一番会ってはいけないひとがいるのが見えた。
「あ……」
思わず息を呑み声を漏らすが、彼は特に私に心動かされぬ様子でそこに在る。黄金の王。──サーヴァント、ギルガメッシュ。獅子の鬣にルビーを嵌めこんだ双眸は、敵意がなくともまなざすだけで鋭く私を射抜く。普段その隣にいるはずの先輩は見当たらない。別行動中は霊体化することが殆どなのに、どうして。その意味を理解する前に、がしゃりと金属の擦れる音を立てながら彼はこちらへ一歩歩み寄った。
「本来我に貴様と交える言葉などない」
私と彼の他に誰もいない木造の廊下を軋ませる明朗な声は、圧をかけて私の喉笛をまっすぐ指し示しているように思えた。
「だが──これが最後の夜故な。手向けとして指摘してやろう、AI。手元のそれについてだ」
彼が顎で促した先にあるのは掌の上の溶けた飴だ。強張る身体をいなし、義務感から私は改めて顔を上げる。
「……あなたが、先輩へ与えたものと聴きました」
それを台無しにしてしまったことを、彼は咎めているのだろうか。腕を組み、首を傾げていかにも、と頷くばかりの彼の真意は見えにくい。示されるグラフの波形も落ち着き払ったものだ。
「怒る……わけじゃないんですね」
「ふん。我が財が貴様らへ巡ることを処断するほど無粋ではないさ」
ならどうして。知らず目で訴えかけていたらしく、わからぬか、とでも言うように一息ついて滔々と語り始める彼から目を逸らせない。
「その飴は我が宝物庫に保管しておいたものだ。無上の佳味であることは言うまでもないだろう? だが貴様はその味の貴重性に価値を見出してはいない。我が興を見出したのはそこだ」
「……食べる選択をしなかったことですか」
「そうだ。貴様が選んだのはそれを口に含むことではなく、自らの宝として胸に抱くことだった。貴様の権能があればデータとして保存することも可能だったところを、敢えて何もせず。己のその行動が何を意味するか、貴様は検分しないのだな」
彼の手中に得物はない。無限の武具が集積する宝物庫へ続く黄金の扉も背後にはない。だと言うのに、彼から向けられた言葉はひたすらに鋭く、私の膚で切れ味を確かめるように迫ってくる。ただの言葉が規則を殺すはずがないのに、──こわいことを言われる気がした。その根拠の薄い予感を宥めて、私は続く言葉を黙して待つ。
「愚かな記録の怪物よ。今一度俺が引導を渡してやる。貴様はBBよろしく、定められたルーチンから逃れることはできぬ人形か?」
瞬間、彼への言いようもない不安を設計された通りのルールが上書いて縛った。〈回答は正しく、すみやかに〉。 ムーンセルのシステムが相も変わらずこの身に走っているのを確認したあと、その規則通り、私は自分自身の真実を紡いだ。
「──私は、AIです。この身が動く限り、私はシステムとしての生を全うします」
口を閉ざし瞼を下ろすと、「やはりつまらんな」と彼が踵を廻らすのにつられてがしゃりと鎧が鳴る音が聴こえた。……その態度に拍子抜けする。そ、そうだ、私は機械だ。ムーンセルに作られたAIだ。彼に何と問われようと、私は知りうる事実を伝えるのみである。その回答に多少の揺らぎはあれど、喜んだりおそれたりする余地はない。だからこそ彼は私と交える言葉はないと言ったのではないか。──この王は、そんな決まりきった言葉しか返せない私にどんな答えを期待していたのだろう?
「ならばそのまま安心して自壊するがいい。だが最後まで、己が忘れ得ぬ身であることを──その機能こそ貴様を貴様たらしめていることを、ゆめ忘れるな」
そう、改めて確認するまでもない当たり前のことを彼は手土産でもくれるかのように呟くから、ますますよくわからないと眉根を寄せた。気安く他者へ語りかけない、その上私の同型機をあんなに毛嫌いした様子の彼がそんな些末な言葉をわざわざ私にかけるなんて。……その理由が見当たらない。
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