「絶望を前にして、なお足掻く──まことに貴様は変わらぬな」
最後の夜。堕天の庭の無慈悲な女王の囚人ではなく熾天の檻の最後の勝者として、正しい未来のアートグラフを描く為──ムーンセルと同化したBBを倒す。そう決めて、BBと同階梯に並ぶ為の神話礼装も手に入れ、ジナコや旧校舎に居たNPC達にも別れを告げて迎えた決戦前夜。桜が再現してくれた美しい星空を見上げながら、葡萄酒の香り立つ黄金のグラスを揺らし、玉座についたギルガメッシュは愉快げに笑っていた。
彼は普段立てている金いろの髪を下ろし、黄金の鎧を脱いで部屋着のような格好で酒を呷っている。私はというと、ギルガメッシュのものと比べると少しばかり小さいグラスを両手でしっかり支えながら彼を見上げていた。注がれた紅玉の如き湖面に彼の顔を映すと、血のような瞳が一層苛烈に燃えているようだ。
彼の瞳から湧き立つ熱、人間の原初の一端に触れることへの畏れは依然と心の底に在る。だけど今は畏れ以上に憧れが勝っていた。
……弁解しておくと、自ら飲酒を断行しているわけではない。旧校舎に貼ってあった未成年飲酒禁止ポスターのように、この傲岸不遜なサーヴァントからの王命を華麗に断ることが出来たならよかったのだが。
『驕れる神との決戦を前に酌み交わす酒はさぞ美味であろう』
『王の出す酒が飲めぬと申すか!』
『貴様が月の裏側で過ごす最後の夜となるのだ。何、ここにムーンセルの目は届かぬ。貴様を罰するものは何処にも居らぬぞ』
──などと、あの王様からあれこれ言葉を尽かすことができたのだ。彼の機嫌次第でいつ殺されてもおかしくないと、意識を張り詰めながら行動していた頃を思い起こすと、流石にマスター冥利に尽きる。ということで、「一杯だけだからね」とグラスを万感の思いで受け取ってしまっただけだ。沈まれ、私の罪悪感。まだひとくち舐めてしかいないし、本当に飲まされる前に一寝入りしてしまえばいいのだ。
「おい。貴様、先程からちろちろと舐めてばかりではないか。もっと勢いづけて飲まねば味がわからぬだろう」
──察しのよろしいことで。どうごまかしたものかと思ったが、ここで下手に嘘をつくのもよくないだろうか。
「……でもやっぱり私、未成年だし……?」
「先刻の我の言葉をもう忘れたかたわけ! この酒は我の宝物庫の中でも秘蔵中の秘蔵、これから神殺しを行う我らに相応しい正に神の雫もかくやといった至高の一品!そのような顔でちびちび飲む代物ではない。興が醒めよう」
まあ、嘘をつこうがつくまいがこういう反応が返ってくるのはわかっていたのだが。こうして自分の気分を害されると、途端嵐のように癇癪を起こすギルガメッシュ。言い分はちょっと子どもっぽい気もするが、それでも彼が威厳を失っていない気がするのは素直にすごいと思う。一層濃度を増し、烈しさを極めている瞳を見つめ返しているだけで身じろぎしてしまう程には。
けれど。彼の少し拗ねたような声色が、そして「我ら」という言葉に込められた深い親しみが、そんな畏怖を超えて私の心をあたたかく満たしてくれる。……いい加減その我ら、という、あなたと私を一括りにする言葉がギルガメッシュの口から発せられることに慣れたい。嬉しすぎるんだもの。つい、もっと褒めてとにやけそうになる顔を必死に取り繕う。
「だ、だって私日本人だもん。日本だとお酒は二十歳になってからです」
「……ふん。確かに貴様はウルクの民ではないな。しかし面白みのない人間よな。斯様な矩、違えようが違えまいが待つ運命は変えようがないぞ」
ギルガメッシュは王様らしい顔をしつつ、その実玩具を取り上げられた子どものように目を伏せて、グラスの酒を飲み干す。彼なりの意地悪を浴びせられたようだ。
……そう。私は生きる為に彼と契約し、その折にマスターの証である令呪三画全てを彼に譲渡してしまった。彼に捧げた令呪は戻ってこないし、彼は月の表側には存在しない。この異常を解決したとしても、表側に戻れたとしても、私がその先生き残れるかどうかは賽を投げなくても確定している。マスターでなくなった私を、ムーンセルが認める筈もない。
「……そうね。わかってる」
俯きがちに私は答えた。どんな顔をすればいいのかよくわからなかったのだ。吐息でまた葡萄酒の水面が揺れる。どうしようもない生への渇望を動力源に、明確な死へと向かっていくだなんて矛盾している。月の裏側で飼われ生かされるのも、生きているという状態には変わりない。
だけどきっと──死へ向かわない生なんて、永遠を謳う生なんて、間違っていると思う。
どんな命も、いつかは終わる。私の命もきっともうすぐ。それが怖くないわけじゃない。でも、怖くても前に進まなきゃ。そう心が叫んでいる。
「──それでも貴様は、月の表を目指すと?」
私は、頷く。
「そうしないと、全部嘘になっちゃう気がするから」
何がって言われたらうまく言えないんだけど。そう苦笑するとふむ、と彼はグラスを脇のチェストに置いて腕を組む。この様子だと、この答えは彼にとって満足のいくものだったらしい。「愚問だったな」と彼は少しだけ眼を細めた。
「〝自分は必ず勝ち残る〟──その思い上がりこそ人間の証明だ。約束された敗北を飲み込み、ひたすら死を遠ざける人間の本質よ」
だけど、それでいいのだと彼は肯定してくれた。人間を裁定する立場にありて、人間を時に嵐の如く攻め立て、時にこの世の悪から守護した彼からのその肯定は、何よりも嬉しい。ギルガメッシュの歩んだ人生が、苛烈ながらも彼にとってよき道だったと感じられることが。そんな彼が、私をパートナーとして扱ってくれていることが。──明日への英気は充分に補えたと思う。彼と共にある限り、私は必ず勝てる。
「時にマスター。我らは今、共に最後の夜を過ごしているのだ。これは以前の夜話の代償でも支払う他あるまい」
「え?」
「なに、メルトリリスの迷宮を攻略する前に話してやったであろう。我の不老不死の霊薬に関する物語よ」
ギルガメッシュによる急な話題転換に暫し頭が追いつかない。足を組んでいたのを前に投げ出して、彼は足元の私へと顔をぐいと遣る。急に彼の彫りの深く美しいお顔が迫ってきたことに驚いて、少しばかり体が後ずさった。……何だか馬鹿にされそうなので、気を引き締めて彼を見返すものの背中には嫌な汗が伝う。
──確かに、そんな話をした。ギルガメッシュ叙事詩を読んだあと、何故彼が不老不死を求めながらも最後にそれを叶える薬を手放したのか、その真意を訊いてみたくなったのだ。彼の語り口はひどく情感溢れ鬼気迫る様子だった。心の中で、彼との星空での出逢いを何度も慈しんだ程に──一層ギルガメッシュという人の在り方を美しいと感じた。確かその時に、「我がこんな話をするのだから見合うだけの代償を払え」……みたいなことを言っていたかも知れない。うろ覚えだけど。
代償。と言っても悲しいかな、私は彼のように財宝を持ち合わせてはいない。彼の話が聴きたいばかりによく考えず首を縦に振ったが、彼にあげられるものは何もない。……どうしよう。彼の昔語りを聞くと決めたことは後悔していないが、無理な約束はするものではない。行き当たりばったりのプロでもどうしようもない時はある。
「ごめん。差し出せるもの、全然ない」
決死の覚悟で謝罪すると、意外にも「ふ。わかり切っていたことよ」と彼はそれらしく呟いた。その代わり、先程よりも更に口角が吊り上がっている。何だか嫌な予感がする。よくわからないが、確実に身の危険が迫っている気がする。
「だがまあ。太陽の騎士相手に立ち回ったように、雑種如きにこの世全ての財にも及ばぬような我が魂を踏み倒されるわけにはゆかぬからな。かと言ってハサンからなけなしの銭を全て献上されたところでつまらぬ。
ふむ。とするとやはりここは、貴様のその純潔を貪るとするか?」
「な──」
まさか。と、息が、止まった。
「何だ。貴様、生娘ではなかったのか? もしや我の眼も闇で微睡んでいるあわいに狂ったか」
何を言っているのか──は、わかる。
「思い返してみれば。あの竜の娘に我が黄金の肉体を晒してやった時、彼奴に比べると貴様の反応は薄かったな」
わかるけれど、わかる分だけ胸の中で強い風がごうごうと吹きすさぶような強張りを感じる。感じるし、敢えてここは言わせてほしい。
「ま、随分慌てた様子ではあったが。しかしあれはエリザベートへの慮り故か。男の裸体を見るのは初めてではないと? ふん、貴様まさか本当に処女ではな──」
「──いきなり何を言い出すかなっ!」
と叫びながら、ここでマスターらしく令呪をもって黙ることを命じ手中のワイングラスでも投げつけられたらよかったのだが、あいにく令呪はもうない。それに、そんなことをして彼の機嫌を損ねたらますます何をされるかわからない。声にならない声を震わせて、それでもギルガメッシュを見上げていると、彼は愉悦に浸りきった様子で「やはりな」と私を見遣った。
「い、いやその辺はほら、聖杯戦争以前の記憶を取り戻したら私ももしかしたら」
「ほう? しかし斯様な態度を取るようでは貴様の記憶などあってもなくても同じもの。そもそも我の千里眼を忘れたか? 貴様は確実に未通であると我直々に認めてやろう、雑種」
そんな認定されても嬉しくない! というか千里眼をそんな用途に使うのは人としてどうかと思う。とんでもなくデリカシーに欠けた私のサーヴァントは、絶対的な自信を持って私へ手を伸ばし、つと顎を持ち上げてにやりと笑った。
「言ったであろう、代償は高くつくと。アレは我の魂の軌跡を垣間見せたようなもの。ならば貴様も、貴様のこれまで培ってきた魂を我に捧げるのが相応しかろうよ」
──わかりきっていたことだが。彼は、一度こうと決めたら止まらない。私が取りこぼしそうになったグラスに手を絡めて一気に飲み干す。空になったそれを無造作に放り投げると(割れると思ったらちゃっかり彼の宝具で回収している!)彼は地べたに座っていた私を前触れなく抱き起こした。……焦っている内にいつのまにか所謂お姫様だっこにされている。つまり身の危険が今本当に迫ってきている……!
「ちょ、ええ……!? 待ってギル、だって后にするには四〇〇〇年早いって」
「王が抱いた女すべてが后になるわけはなかろう。何だ、我に抱かれるだけでは飽き足らず后の位まで望むか? 夢を見るのは寝ている間だけにしておけ、貴様に我の蔵の首飾りはやれぬ。ハサンの臭いがうつるからな」
「息を吸うようにディスるのやめてくれませんかね!?」
などと反駁している内にも、彼は横暴に私を持ち上げてベッドへと向かう。……恥ずかしさで本当に顔とか胸の奥とか、全部爆発してしまいそうだ。こんな行為に及ぶどころか恋愛すら全くの未経験だというのに、好きじゃない人とそういうことをしてもいいのだろうか。そんな疑問を懐いてすぐ、更なるクエスチョンマークが頭の上に浮かぶ。私は、ギルガメッシュのことが好きじゃないのだろうか。
たじろいでいると、ぽすんと粗雑ではあるが優しく寝台に投げ出される。履いていたローファーも、あまつさえハイソックスまで脱がされた。瞬く間に彼も無防備なままの私に覆いかぶさってくる。空気からして冗談抜きで──その、私を抱こうとしているようだ。だがその前に私がこれから何を口走ってギルガメッシュを拒むか、その反応を愉しもうとしていることは、彼の歪んだ口元より明白である。性質が悪い。どんな建前を取り繕ったって、結局は身ぐるみ剥がされるに違いない。
「ま、待って……」
兎にも角にも心の準備が出来ていないのだから、少しぐらい猶予を与えてくれたっていい筈だ。なけなしの勇気を振り絞って声を出すと、彼は更ににやにやと意地悪く笑い始める。
「右も左もわからぬ少女が王の閨に招かれ、ただ惑い怯える様はいつ見ても滑稽よな。よいぞ、好みではなくともその初々しさ、我自ら愛でるに値する。
……何だ。我にここで据え膳を喰えとでも諫言するか? 何の奉献もなく我が王命を否定した罪過、その身で背負うには余りに至大過ぎよう」
それにしてもこの英雄王、ノリノリである。こちらに全く経験がないとはいえ、幾ら何でも馬鹿にしすぎだ。
一体どうしたものか。このまま彼に身を委ねてしまっていいのだろうか。そんなこと自問してもしなくても、彼に好きにされるんだろうけれど。
それでもギルガメッシュは、私がどんな結論を出すかを聞きたがっている。なら、いいか悪いかじゃなくて私がそうしたいかしたくないかが重要な気がする。……いや、そんなの記憶がここ一ヶ月程しかない自分に問うたところで本当のところはわからないのだけれど。
「ギル」
「何だ? 観念して我に抱かれるか」
ギルガメッシュの朗々と響く声に射抜かれて、引き結んだ唇が震える。
「──うん」
意を決して告げた時、力みすぎてその一言すら絞り出すのも辛かった。心臓がばくばくと鼓動を刻み、頬は湯気が出そうなくらいに熱い。案の定、私の様子を愉しんでいるらしいギルガメッシュは「ほほう。ほほーう」とじろじろ角度を変えこちらを眺めつつ煽り始める。……やっぱ今のなし。衝動的にそう告げたくなる心を抑えて私は言葉を続ける。
「私は、あなたに感謝してる」
「ほほー……何?」
悦に浸っていたらしい彼が私の返事にぴくりと眉を動かした。──あ、今ちょっと驚いてるな。彼が驚いていることに私も驚きながら、必死で彼に伝えたいことを頭の中から拾い上げる。
「初めはほんとにどうなることかと思ったけど。令呪もないし、いつ殺されてもおかしくなかったんだろうし。──でも、やっぱり私はあなたに出会えてよかった。人間として生きて死に、人間を見定める者として在るあなたが、私を人間だと認めてくれて嬉しかった。これがその代償だと言うのなら、私は支払うよ」
ギルガメッシュの、世にも珍しい虚を突かれたような表情が覆う天井を見据えていたら、自然と笑みが零れていた。滅多に拝むことは出来ないけれど、下ろした髪も相まって彼が少し幼く見える表情。夢の中で見た、彼の朋友を前にしたような綻びのある顔。……何だか、心がじんわりあたたかい。もしかして、これが所謂愛しいという感情なのだろうか?
そこまで考えて、妙に腑に落ちるものがあった。彼にこの身を預けるにはそれで充分だ。もとより命の全てを彼に捧げているようなものなのだ。
「それにね。私……嫌じゃないみたい。……いや、いきなりこうなるのは正直意味がわからないというか、怖いしびっくりしたけど。でも……嫌だって気持ちは湧いてないんだ。ギルと……そういうことするの」
いざ口にしてみると恥ずかしさが後から襲ってきたけれど、きっと些末なことだ。もっと恥ずかしいことがこの後待ち受けているのだから。ギルガメッシュは私の顔から目を逸らし、こめかみを押さえながら「ふん」と鼻を鳴らした。
「……つまらんマスターよな」
ああ、ほら、そうして何の気負いもなく私のことをマスターと呼んでくれる。私にはそれで充分だ。その言葉だけで満ち足りる。
「何だその締まりのない顔は。興が削がれる」
「え、じゃあしないの?」
「……王の言葉に二言はない。我は我の好きなように抱くぞ、いいな」
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