スティグマ賛歌 - 2/2

 わたしには夫がいたの。小さな会社を切り盛りする、とても優しい人だったわ。五年前に出会って、結婚したのは三年前。子どもはいないけれど、ごく普通の幸せな家庭を築けていたと思う。けれど……二年前、彼の会社が事業に失敗してからすべてが狂い始めた。会社は倒産し、軈て取り立て屋が押しかけてくるようになって……夫を助けようと、その一心で私も色々協力したわ。でも無駄だった。夫の精神は日増しに追い詰められていった。

「……失礼ですが、その中で家庭内暴力などは」

 いいえ、全く。あの人は私には変わらず優しいままだった。だからこそ彼が無理をしているのだということがよくわかったわ。私も、彼の力にならなくてはとより一層思った。……そんなときよ。私が同じく社長を務める元の夫と再会したのは。

「元の夫……では、彼との結婚は二度目だったと?」

 ええ。……私は彼と出会って、元の夫と別れることになった。彼を愛してしまったから。だけど、元夫は私の彼の会社の取引相手だった。
 彼は私を呼び出して「戻ってこい」と言ったわ。はじめはもちろん戻れない、と思った。でも、それを何度も続けられて……離婚して私が戻れば、夫の会社に融資をするとも言われて……私の心の天秤は次第に傾いていった。真に夫の為になるのは果たしてどちらなのか、日ごと悩むようになった。そうして私の興味と関心は、次第に夫そのものから離れて自分自身の内に向けられるようになったの。

「あなたは……その結果、彼と離婚したのですか?」

 離婚──ええ──そうね。それで終わっていたならどんなによかったか。

「──では、そうしなかったのですか」

 何と言えば、いいのかしら。……私は、結局彼の心を壊してしまった。私が元の夫と会っているのを知って、彼は自殺してしまったのよ。
 ……ああ、これだけでは大いに語弊があるわね。元の夫は……私の心を揺り戻す為に……彼と出会う前の私達の結婚生活を再現しようとした。そうして私は、見知らぬ男たちに輪姦されたの。

「──」

 あら、意外と驚かないのね。──元の夫はね、間男に自分の女を盗られるのがひどく好きだったのよ。だから私は元の夫と結婚してから何度も何度も何度も何度も、夫ではない男たちと肌を重ねていた。このままではいけない、私の心が壊れてしまう。そう思った時に彼と出会った。彼の前で、私は清純な妻を気取っていたけれど──だからそんな私のおぞましい姿を元の夫に映像で見せられた彼は、いよいよ心を壊してしまった。私が帰ったとき、彼は首を吊って死んでいたわ。「幸せになってくれ」と、一言だけ書かれた遺書だけ残して。

 そのまま、私は遺書と財布と最低限の着替えだけ持って家を出た。そうして一週間ぐらいかしら……私は今住んでいた場所とは別の都市のホテルにいる。元の夫が私の居場所を探していると思うと、外に出られなかった。それに……今更神に赦しを乞うというのもおかしな話でしょう。だから、あなたのところに来たの。私はあなたの信じる神のことを知らない。でも……この心の苦しさを取り除いてくれるんでしょう!? お願い……私が罪びとだったとしても……赦されなくてもいいの。寧ろ私は罰されたい。彼の言った通り、このまま幸せになることなんてできない。……どうか、私を救って罰してちょうだい。

 気がつけば、私ははあはあと息を荒げて目の前の白い机に拳を叩きつけていた。こんな剥き出しの心を吐露するだなんて──自分で考えていた以上に、このことが重石になっていたようだ。だけど、当然かも知れない。もう彼は失われてしまった。元の夫のところにも戻れない。私はたった一人で、この十字架を背負い続けなければならない。……それでも、その重みには耐えられない。だって、私は、本当は──

「お話はそれだけ、ですか?」

 キアラの凛とした声が私の心を大きく揺さぶる。

「え……あ……」
「あなたの事情はよくわかりました。ですが……私が視るに、あなたはきっと何か話し忘れているように思うのです。だって──」

 私の慄いた様子にも動じず、彼女はすらすらと巻物でも読み上げるかのように私の心を読み解いていく。何か魔術でも使われたかのように身体が動かない。動けない。息が、できない。何とかして今すぐ彼女の口を封じてしまいたいような、だけど絶対にそうしたくないような、感情の奔流のぶつかり合いが私の胸の内を支配してゆく。だって彼女が、彼女が真実を言ってしまえば、私は。
 きっと今の私では、いられない。

「──あなた、悦んでいましたね?」

 その瞬間、自分の心の臓が綻ぶような感覚を得た。熱い。胸が苦しい。すると、どういうわけか私の胸元が光り始めて、その後真っ赤に熟れた果実のような光球が文字通り摘出された。
 これが五停心観の効果。──では、これが私の罪。私が負った十字架。

「あなた……元の夫の彼の行為を、受け容れていましたね? いいえ、寧ろ──悦んでいた。あなたが彼の下から逃げ、死んでしまった彼と結婚したのは、そんな自分を認めたくなかったから。だけど再び元の夫が現れ、彼の囁く甘言に惑わされ、遂にそれに屈してしまった。……そうなのでしょう?」

 『こうでなくては』と決め込んでいた妻の姿がほどけていく。代わりにキアラの読み解いた私が、──今の夫の命より、自分の快楽の方が上回ってしまった女が。露わになってゆく。

「あは……そ、そうよ……これが私の本心。あなたが暴いた通り……」

 気が狂いそうなくらいに開放的な気分だった。いや、きっともう気は触れている。だってずっと抱えていた心の重石がなくなったのだ。これまでずっとずっとずっと頭がどうにかなりそうだった。認めてしまえば楽になるとわかっていながら、最後の最後に残った私の良心がそれを拒んでいたから。でも、もうそれも意味がなくなった。私は知られてしまった。──いいえ、確かに私は誰かに知ってほしかった。

「元の夫のところにいた時、確かに私は幸せで──だって、本当の私はこんな顔をしていた──でも、彼と出会って、そんな自分を消すことができるかも知れないと! そう、思ったのよ! でも……やっぱり私は……!」

 キアラはただ、狂瀾の中に在る私を見つめ続けている。決して否定することなく。だからこそ本当の私の醜さを言い当てられた気がして、震えてしまう。

「それもまた人の営みです」

 彼女はそう言い切って、瞬きひとつせずに私へ手を伸ばす。握りしめすぎて真っ赤になっている拳を、その白い手で包み込む。

「あなたに罪はありません。ですが確かに取り返しのつかない間違いを犯したのは事実。……あなたは、そんな自分を肯定されたいのですね」
「あ……」
「行くあてがないのでしょう? ……なら、私の下においでなさいな。信仰があるかどうかは関係ありません。私はあなたのことを救いたい」

 そうして彼女の指に力が籠る。ここは電脳空間、所詮伝わる温もりもまやかしでしかない。それでも今は、今だけは、このどうにもならない私にとって本物に思えた。
 そのまま頷くと、キアラは──うっとりと。揺り籠を揺らす母にも似た優し気な微笑みで、私を包み込んだ。

✦ ✦ ✦

 それからどれだけ時が経ったのだろう。もう、時間の感覚が存在しない。けれども私は今とても幸福だ。元の夫との間に感じていた罪業も、死んでしまった夫と育んでいた愛も──彼女の与えてくれた悦楽にはとてもかなわない。

「あ゛っ、あ゛あ゛っ……! いや、ああ、助けて……!」

 悲鳴を上げながら、私は髪を振り乱して背を逸らす。夜毎私はキアラの信者達に犯されていた。目の前にはいつも通りキアラが嫣然と佇んでいる。彼女という信仰対象もまた、信者達自身の手によって貶められていた──けれど、彼等の手がキアラの身体を這えば這う程に、彼女はより白く輝いて見えるようだった。

「あなたはこれを望んでいたのでしょう」

 互いに男達に身体の奥を突かれながら、私達は手を伸ばし合う。私の掌に絡み合った白い指の温もりは、あの時電脳空間で感じたそれと変わらない。このあたたかさを縁として、私はドアの外に踏み出すことができた。本当の自分を受け容れることができた。
 ──確かに彼女の言う通り。私は、救われていたのだ。

羽虫あなた達も──皆、ただ愉しければよいのです」

 そう呟いた後、キアラは私に濡れそぼった唇を押し当てた。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、3回まで送信できます

送信中です送信しました!