嫌気がさす程清潔な、染み一つない白い天井を見上げる日々にも飽きが来る。食事も睡眠も、終いには排泄まで管理されるこの場所を人々は病院と呼ぶが、私にとっては監獄そのものだ。腹が立つ。嫌気がさす。だが、一番嫌悪をもよおさずにはいられないのは、それに頼り切りにならねばならない今の自分自身だ。
「やあ、元気にやっていますか。お父さん」
自動ドアの動く音と同時にやたらめったら陽気な声が響き渡る。無遠慮に敷居を跨いで、この広々とした部屋──私しかいなかったこの殺風景な病室に足を踏み入れたのは息子であった。自分も自分で初老に差し掛かっている癖に随分と若作りのスーツ姿、且つポマードで固めたオールバックであるところを見るに、会社を抜けてわざわざここまで来ているのだろう。……律儀なことだ。それは余分だと、何度も教えたのだというのに。
「これのどこが元気に見えるのか」
点滴に繋がれ、自由に動くこともできぬ老体の我が身を皮肉っているのか。息子は「定型句ですよ」と手をひらひらと振り、ベッド際に置かれていた椅子に腰かける。邪魔になりそうな程長い脚を組むのを見ていると、本当に私に似ず気障な男だと思う。無論、それはある意味当然とも言えるのだが。
「何の用だ。仕事を抜け出す口実に私を使うな」
「ひどいなあ、お父さんが心配で来てる以外に何の用があります?」
私の偏屈な態度に、息子は辟易した様子を全く見せない。お前はいつもそうだ。何も言わず、私の腕を取って走り出すような男。そういう人間に、私は今まで一人だけ会ったことがある。
「と言っても、今日は本当に用があるんですよ」
「何だ、一体」
「ちょっと待っててくださいね。どうぞ、入ってください」
にやついたままドアの向こう側に息子が声をかけると、程なくして半透明の硝子のドアの向こう側に人影が浮かんだ。そのままぶん、と自動ドアが開いて──女が一人。しずしずと、白百合のように嫋やかな足取りで室内に踏み入った。
東洋系の尼僧だ。頭巾で頭を隠し、黒い僧衣を纏った女。だが、そんな禁欲的な姿ながら立ち上る色香は計り知れない。僧衣の下の身体のなだらかな稜線は、これまで何人もの人間を食い物にしてきたことを物語っている。一瞬で気が引き締まった。この女は私が最も嫌う類の魔性だ。
「殺生院キアラと申します」
そうしてすす、と頭を下げて微笑んだ女となるべく目を合わせないまま、「何だこの女は」と息子に視線を遣ると彼は「そういう物言いは失礼ですよ」と腕を組んで苦言を呈した。
「かねてから思っていたんですよ、お父さんにはサイコセラピーが必要だと」
「は?」
「殺生院さんはこの2026年における超・話題沸騰の有名セラピストなんです!」
私の戸惑いをよそに、息子は楽しげに話を進めていく。サイコセラピー? この私が、何故? 目を瞬かせている内に、「まあ……そこまで持ち上げていただくのは恥ずかしいですわ……」などと目を伏せる女の所作が視界に入って妙に気に障る。
「いえいえ、その名声も実力も共に真実でしょう。あなたは宗教活動の一環として信徒以外にも分け隔てなくサイコセラピーを行い、多くの人間を救っている」
「……ちょっと待て。勝手に話を進めるな。私にサイコセラピーなんぞ必要ない。私の病気は精神ではなく肉体にあるのであって──」
「と・い・う・わ・け・で! これからお父さんには毎週水曜この時間から殺生院さんのセラピーを受けていただきます」
このままでは息子たちの良いように弄ばれてしまう。そう悟った私は息子の言葉を遮ったが、逆に遮られてしまった。それも、衝撃的な一言で以て。
「何……だと!?」
「では、僕は仕事が立て込んでいるのでこれで! あとは殺生院さん、よろしくお願いします!」
「おい、待て話はまだ──」
私の静止を振り切り、息子は椅子から立ち上がって颯爽と病室から出て行ってしまった。……何なのだ、あいつは。あまりの説明のなさ、傍若無人さに怒るのを通り越して呆れかえっていると、ふとそこにいた女と目が合ってしまう。
「……ええと、よろしくお願いしますね?」
マリア像のごとき──というと、宗教から間違っているだろうが──微笑みを浮かべた女をふんと鼻で笑ってやる。「いらん。金なら払うから帰ってくれ」そう言って窓の方へそっぽを向くと、「そうは言われましても。お勤めは果たさなければなりませんもの」と言って女は息子の座っていた椅子へ腰かけた。
「あなたのことは既に幾らかお聞きしています。■■■■・■■■■■コーポレーションの二代目社長、現会長。現役社長時代は事業拡大に力を入れ、会社を随分と大きく成長させたとか」
「ふん、昔取った杵柄を褒められても何も出ん。それに今は隠居、それも余命一年と宣告された身だ」
「存じております。だからこそ、現社長も私をお呼びになったのでしょう」
……その声。女の発した言葉に、どういうわけか視線を寄越してしまう。化生にしか見えなかった女が、その一瞬ばかりは一本の芯の通った意志を見せた気がして。
「確かに、あなたは常人に比べてずっと強靭なお心をお持ちなのでしょう。あなたが一代で成した偉業が、そして今目の前にいらっしゃるあなた自身の眼がそれを物語っている。ですが、それ故にその心は……結いの目のように凝り固まっている」
「何を言って……」
「これも縁です。必ずや、あなたの心を解きほぐしてみせましょう」
女は──殺生院キアラは、そう言ってにこりと天女のような微笑みを浮かべてみせた。
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