ああ──私の記憶が、もう誰に話すこともないと思っていた思い出が、再生されていく。
ゴミ捨て場で寝起きしていた私を拾ったのは、あの人だった。あの人のおかげで、私は掃き溜めのような人生から一転してまともな人生を歩み始めることができた。……本当に、感謝していた。昏い路地裏で鼠のように這いまわっていた私には、あの人の強い光ある眼差しはまるで一番星のように眩いものだった。だから、憧れた。己の生を賭してあの人を守るのだと。そう、思っていた。
だのに。あの人の命を病魔は無慈悲にも蝕んだ。あの人が私に望んだのは──あの人の意思を継ぐこと。そしてあの人が育もうとした命を守ること。
無理だと思った。あの人のように私はなれない。だって、私が──オレのような存在が、あなたに代わって幸せになるなんて。
それでも、あの人はそれを心から望んだ。「それが私の幸福だ」と。あの人は私にそう笑いかけたのだ。
「──……っ、はあ、はっ……」
気がつくと目の前はいつもの見慣れた染み一つない白い天井だ。電脳世界から現実世界へと引き戻された感覚に吐き気を催しながらも、何とか起き上がる。ふと横を見遣ると殺生院もまた先程と同じく椅子に座ったまま、こちらを気づかわしげに見つめている。
「お体に障りはございませんか。ナースコールは……」
「いい。必要ない。それよりも……あなたも、アレを見たのか」
頷く殺生院を見てひとつ、ふたつと深呼吸をすると、漸く心拍数が落ち着いてきた。彼女は辞典から言葉をひとつひとつ選ぶようにして、静かに語り始めた。
「あなたは、愛していらしたのですね。一代目社長──身寄りのなく放浪していたあなたを家族として迎え入れたあの方を」
そう口にした彼女を見て、訳も分からず泣いてしまいたい気持ちになった。最後の理性がそれを押し留めたものの、私の瞳からは一筋涙が伝っていった。もう何十年も流していなかった涙の熱さに、私はただただ圧倒されていた。
「あの人は私の太陽……標星のような存在だった」
自ずと彼への心を口にしていた自分自身に驚いてしまう。……いつもよりもしわがれた声だったのは、彼のことを語るのが随分と久しぶりだったからだろうか。
「孤児として育った私を見つけ、家族として迎え入れてくれたのは会社を立ち上げたばかりのあの人だった。働き口のなかった私に、彼ははじめ自分の鞄持ちの役目を与えた。途中からは見込みがあると正式に営業マンとして採用してもらえたがね。もちろん彼に恩返しをするつもりで必死に働いたさ……当時で言うベンチャーだったこの会社はすぐに成長し、私もいつの間にか会社の要になっていた。
プライベートでも、私とあの人と、家政婦だった女性と、三人で──まるで古くからの友人だったかのような日々が続いた。……本当に幸せを借りている気分だった。居心地が悪いくらいにね。だが、会社が軌道に乗り始めた頃に突然彼の身体は病に冒された。
あの人は言った。自分の代わりに会社を継いでくれ。そして家政婦の彼女を幸せにしてくれ、と。もちろんそんなことはできない、それはあなたの役目だと首を振ったさ。だが……あの人の身体はもうどうにもならないところまで来ていた」
堰を切ったように溢れ出る彼への思いが、私を、「オレ」を露わにしていく。もう二度と口にするまいと思っていたのに。出会って数か月しか経っていないこの女に、何故オレはこんなにまで情けなく頭を垂れているのだろう。もう一人の自分が冷めた目でそう呟いたが、今のオレを止めることはできない。だって、もう女はオレを視た。視られてしまった。頭のてっぺんから爪先まで、余すことなく。オレの記憶を、オレの心を、寸分たがわず見通したのだ。
「あの人の幸福を叶える為に、オレは彼の言う通りにした。彼の会社を継ぎ、彼女と結婚した。だが──彼女を幸せにすることは、できなかった。彼女はあいつを産んだあと、一年も経たずに自殺してしまった」
ぐしゃぐしゃになった顔を掌で多い、背を丸めるオレは酷くみっともない老人なのだろう。だが、それでも殺生院は動揺することなく佇んでいた。オレの顔を覗き込み、真剣な眼差しで「それで」と訊ねた。
「彼女の本当の思いを、あなたは知っているのですね?」
その言葉で理解した。殺生院がどこまで見抜いているのか。彼女がオレの記憶を、奥の奥まで見通したのだということを。瞬間、胸の内からぶわりと花びらが散っていくような感覚を覚える。羞恥のような、それでいて歓喜のような──知られまいと思っていた心を丸ごと抱き留められたような、そんな甘美を。
「彼女は、オレを愛してくれていた。だが、あの人への思いはなかったことにはならなかった。だって──あいつは、あの人の子だ」
だから。あいつは、あの人と同じ瞳をしているのだ。
彼女は、ずっとあの人を愛していた。彼女も彼の家政婦になる前は、私と同じ身寄りのない孤児だった。彼の身体のことを知ったとき、彼女は彼に思い出を願った。そのまま彼女はオレと結婚し、あいつが生まれた。それを、彼女はオレへの裏切りのように感じたのだという。そうして彼女は自ら命を絶ってしまった。──オレは。遺書を読むまで、彼女の真意を理解することができなかった。
「オレは結局、人でなしだったんだ。元々そういう風に生きてきたからな。人の情を心から信じることができない。あの人を信じることができたのは、何かの奇蹟か──そうでもなきゃ何かの間違いだった。だから、オレはただあの人のもう一つの願いを叶える為の機械になろうと思った。その結果がこれだ」
自分自身を嘲りながら、オレは罪を告白する。そうだ、これがオレの罪だ。彼に信じてもらった恩返しをすることができなかった。彼女を愛し、理解することができなかった。そんな自分に人としての幸福を願う資格などない。
「あなたは、未だ嘘をついておいでです」
だが、殺生院は徐にオレを否定した。「……は?」と思わず聞き返すオレを真っ直ぐと見据え、彼女は椅子から立ち上がる。
「あなたの──他を愛する心は本物です。あなたの行いも、あなたが愛した方の行いも、彼女の行いも、全ては互いを愛するが故。それがすれ違ってしまっただけのこと。一切に罪はなく、与えられるべき罰もない」
「なら──それなら! オレはあいつを……彼女を幸せにしてやれた筈なんだ。だって、オレはあの人の代わりにならなければ……」
「いいえ! 人は他人に成り代わることなどできません。あなたの犯した間違いは、そちらです。彼の方は──あなたがあなたのままで、幸せになることを願っていました」
まるで知ったような口を利くな。そう、言葉にしかけてはたと口を噤む。
「……あなたは、記憶の中にある人間の心までも見通すというのか」
予感のままに問うと、殺生院は「ええ」と首を縦に振った。
「そうでなくては、私があなたの心に入る意味がありません。
人は間違いを犯すもの。ですが、それは罪ではないのです。あなたの心は確かに彼の方への、彼女への、そして……生まれてくる子への愛があったのですから」
そうして、彼女の白い指がわたしの皺の寄った掌に重なる。人間の体温のあたたかさを味わったのは久方ぶりだった。──それこそ。もう遠く離れたあの頃の。彼と彼女と三人でいた頃の幸福な日々の記憶と重なる。
彼が手を引いてくれた。一緒に行こうと言ってくれた。隣には彼女もいた。あの陽だまりのような時間が、今、ここに戻ってきた。
「己を縛る必要はありません。あなたは、あなたの信じた心をお大事になさってください」
彼女はそう言って、天からの御使いのように微笑んだ。
ああ、やはり。オレは目を瞬いて彼女を見つめる。はじめ、彼女を見た時魔性だと思った。他人を惑わす化生の如き存在だと。確かに、その感想は間違ってはいなかった。彼女は人ではない。──天が地上に遣わした、人ならざる聖者だったのだ。
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