鏡よ鏡 - 1/3

 名を呼ばう召使達の声を聴いて、私は夢から目を醒ます。

「エリザベートさま。おはようございます」
「……おはよう」

 ふわ、と漏れる欠伸を噛み殺して体を起こし、未だ焦点を結ばぬ視界をあらためようと眼を擦ると「いけませんよ、せっかくのお顔が引き攣れてしまいます」と止められる。ああ、確かにそれはいけない――そう思ってすぐに指を離し、代わりに差し出されたハンカチで顔を拭う。冷たく濡れた布が肌に張り付くのを感じながら、ああ、ここは現の世界なのだと私はため息をついた。

 バートリ家の令嬢、エルジェーベト。貴い血を継ぐ娘。尊ばれるべき美貌の持ち主。それが初めから私に与えられていた名と役割だった。そう、お父様から教わった。だから私は望まれた通りに完璧な呼吸をした。
 それはたとえば、ラテン語のお勉強。たとえば、諸侯らを出迎えたときに相応しい立ち居振る舞い。貴き血はそれ自体讃えられるべきもの。だが、加えてその血に見合う教養を身に着ける義務が貴族にはある。加えて、女として生まれた私には愛され尊ばれる為の完璧な美しさが必要なのだという。

「エルジェーベト。お前は決して満足してはいけない」

 バートリ家の者として振る舞うとき、いつも物心ついた頃にお父様から口を酸っぱくして言われた言葉を繰り返す。私に初めて家庭教師が付けられる日の前夜。呼ばれて、お父様の寝室まで出向いたときのことだ。肩が震えたのはこの季節特有の肌寒い空気に触れたからか、それともお父様の冷たく厳格な態度に気圧されかけたからか。

「お父様、それはどうしてですか?」

 何も知らなかった私を躾けるお父様の姿は実際よりもずっと大柄に見えて、私は神妙な顔をしてお父様の下に跪く。蓄えた立派なプラチナブロンドの顎鬚を撫でながら、お父様はこう告げた。

「満足の先に待つのは腐り果てる未来だ。斯様な隙は必ずや諸侯の付け入る的、領民の反抗の機となろう。そうあってはならない。完璧でなくてはならない。バートリ家の尊き血と財は永遠でなくてはならないのだ」
「永遠……」

 お父様の口にした永遠、という言葉は子供心に私の耳によく馴染んだ。まるで砂糖菓子のように甘く、画家に描かせた肖像画のような美しい響きがそこにはあった。

「いつかお前もバートリ家の名を背負い嫁ぐ日が来よう。その時、永遠にお前は統治の象徴として輝いていなければ。厳しく、そして美しく。女である以上、美しくなければ価値はない……」

 お父様の口ぶりは、いつの間にか重苦しいバリトンから歌うようなテノールへと変化していた。私の顔をまじまじと見つめながらも、それを通して懐かしい夢を思い起こしているような。――ああ、もしやお父様の瞳にはお母様の姿が浮かんでいるのかしら。幼心に私はお父様の心境を察するに至った。

「エルジェーベト、いつまでも美しくあれ。賢くあれ。そして、完璧であることを忘れるな。その先にバートリ家の栄光は続くのだから」
「――ええ、お父様」

 即座に頷き、この間習ったばかりのお辞儀をしてみせる。その所作を認めてくださったらしいお父様の僅かばかりの笑顔を目にして、ようやく張り詰めていた神経が緩むのを感じた。けれど、心の奥深くでお父様の言葉を反芻することだけはやめられなかった。
 ――いつまでも美しく、賢く。そして完璧な女であれ。それが私――バートリ=エルジェーベトの歩むべき人生の標なのだった。

✦ ✦ ✦

 お母様を私は知らない。けれど、お母様がいた痕跡はこの城のそこかしこに残されていた。
 それはたとえば、軽率に触るのも憚られるような豪奢な宝石箱。たとえば、天鵞絨の地にふんだんにレースをあしらった真っ赤なドレス。だから、それこそがお母様からの、手紙のないプレゼントだと思うことにした。

「御后様は本当に美しい方だったのです」

 この家に長く仕える召使達は口を揃えてそう言った。あまりにも皆が同じことばかり言うものだから、本当にそうだったのだろうと私も思った。
 自室を出て、広間に行くまでの間に必ず出会うご先祖様達の肖像画群。そこにお母様もいらっしゃった。燃えるような赤い直毛の御髪。吊り上がり気味の碧の瞳はよく晴れた空に似て、小さな唇は花のように綻び、額縁越しの私に嫣然と微笑みかけていた。

「これは御后様がこの城に来られた頃の……つまり、ご結婚なされたばかりの時に画家に描かせたものですね」

 毎日毎日私がこの絵に見惚れるものだから、それを見かねたらしいじいやが声をかけてきた。お父様が子どもの頃より城に仕えるじいやの言うことだから、それは本当なのだろう。

「お母様は何歳の頃にこちらに嫁いでいらしたの?」
「確か十四の頃と聴き及んでおります。今のエルジェーベト様とあまりお変わりありませんね」
「そうだったのね……」

 十四歳。あと少し経てば私もこの絵の中のお母様と同じ歳だ。思わず鏡の中を覗き込むように、頬に指を這わせて自分の顔形を確める。
 ――私は、美しいのかしら。この絵の中のお母様のように。完璧に美しいかしら。

『エルジェーベト、いつまでも美しくあれ』
「エルジェーベト様も、いつまでもお美しくあってくださいまし」

 ふとあの夜に聴いたお父様の言葉のリフレインに、じいやの夢を見ているような声が重なる。
 やはり、私は美しくなければならないのだろう。今も、そしてこれからもとこしえに。この絵画の中で微笑むお母様のように。

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