今夜は久々に城で祝宴が催される。召使達の大半が宴の準備に忙しそうにしている間、私も私でバートリ家の娘として諸侯の前に出て恥ずかしくないよう着飾る準備をしなければならない。風呂に入り、念入りに肌を磨き、髪を梳かして爪紅を引く。着ていくドレスをどれにするかは悩みどころだ。お母様の残してくれたドレスはどれも趣味が良いものばかりだけれど、今の私が着るには大人びて見えすぎる。だから結局クロゼットから召使が見繕ったうちの一つを選ぶことにした。
「でもこれ、地味過ぎない?」
「何を仰います。このシンプルなシルエットこそ、お嬢様の美しさを真に引き出せるのですよ」
「そうかしら……」
「嘘など申し上げませんわ。――やはりお嬢様は真紅がよくお似合いで。御髪の色の所為かしら」
召使の歯の浮くような誉め言葉を、今は何となく持て余してしまう。確かに悪くはないけれど、私自身の好みからは外れるドレスだった。どうせ着るならよくあるラインのドレスよりも私にしか似合わないものを着てみたい。仕立て職人ではないから具体的にどんなものが良いのかはわからないけれど、……そう、たとえば色はこんな深い赤ではなくて、もっと明るいピンクサファイアのような。フリルをふんだんに使用した、目も覚めるような豪勢なドレスを。
そんな夢想を膨らませながら、お母様の宝石箱にそっと手を掛ける。中には指輪や首飾りの類が丁寧に収められている。私は無意識のうちに、大粒のルビーがあしらわれた指輪を手に取っていた。
「まあ、何と美しいお嬢様でしょう!」
宴席にて、私の美貌は諸侯たちに酷く尊ばれた。世辞ではなく、まるで魔法にかけられたかのようにうっとりとした瞳で彼等は私を持て囃した。
「お嬢様は随分と勉強熱心でもいらっしゃるとか」
「ほう。ではうちに眠っているラテン語の書物を幾つか差し上げましょうか」
「うちの息子ともぜひ仲良くしていただきたいものです」
あれこれと好き勝手に感想を言い合う諸侯たちに微笑みながら、私はちらと再びお父様のご機嫌を窺う。少し離れた席に座っているお父様は、ほのかに笑みを浮かべこちらを見つめている。
それを見て思い知った。――きっと、お父様の願った未来とはこういうことなのだ。美しくあれ、賢くあれ。バートリ家に相応しい人間として、私は今この広間の中心に在る。だから――ほんの少しだけ、私は今置かれたこの状況に、満足しそうになってしまった。
『エルジェーベト、いつまでも美しくあれ。賢くあれ。そして、完璧であることを忘れるな。その先にバートリ家の栄光は続くのだから』
――いいえ。ふ、と心地よい夢に浸りかけた私の背を、ひやりとなぞる厳かな声が聴こえる。
あの時のお父様の言葉には続きがあった。美しくあれ、賢くあれ、そして、完璧であることを忘れるな。現状に満足してはならない。満足した途端、人は完璧な状態から腐り落ちていくだけなのだから。
私はバートリ=エルジェーベト。ハプスブルクの青き血すら引く高貴なる令嬢。ならば、もっと美しくあらねば。賢くあらねば。爪紅が剥げてしまわぬよう指の腹でドレスの裾を抓み、既に張り詰めていた背筋にぴんと緊張を走らせる。ただし微笑みは絶やさぬよう、皆が称える美貌を翳らせぬよう。それが私の果たすべき務めだと、心から私は信じていた。
お父様が諸侯たちとの歓談に夢中になっている間、私は少し遠巻きにしてその様子を眺めていた。
何だか、頭の奥がずきずきと痛むような気がしていた。今夜は随分と気を張っていたものだから、疲労が頭痛となって表れているのだろうか。しかし今ここで広間から退くわけにはいかない。
そろそろ私もあの絵の中のお母様と同じ年の頃合いだ。お父様も私の結婚について考えてくださっているのだろうし、もしかすると私の未来の結婚相手だってこの広間の中にいるかも知れない。そう考えると、途端に胸焼けがしてくる。いや、胸焼けというよりもこれはときめきという焦げ付いた感情だろうか?
――私だって、恋について人並みに考えたことはある。少ないけれど、ラテン語で触れられる書物の中には聖書や堅苦しい学術書だけでなく御伽噺の類もあった。秘密めいた恋の物語の数々は、読むたびに私の心を文字通りとろかした。いつか、私もこんな恋を知る日が来るのだろうか。いつか、いつか……砂糖菓子のように甘やかな言葉をかけられる時が。そんなことをお勉強の合間に考えては頭を振った。
恋とは女を美しくするものだという。ならば恋をした私はより一層美しくなるだろう。早く私も恋を知りたい。素敵な殿方に心ときめかし、秘密の恋文を交わしてみたい。そんな想像の反面、恋に対してどこか冷めた自分もいる。恋をしたところで、二人の未来はいったいぜんたいどうなるというのか。私が護らねばならないバートリ家の高貴な血はどこへゆくのか。――そういった相反する情動が、この頭痛を引き起こしているのかも知れない。
兎にも角にも、頭が痛くて痛くてたまらなかった。ぐるぐると視界が回転しているような気さえする。……これは流石に休憩が必要だ。そう思って傍のソファに腰を掛けると、ふと視界が人影に遮られた。
「よければ、お飲みになられますか」
顔を上げると、目の前に差し出されたグラスを反射的に手に取ってしまう。「あ……ありがとう」と絞り出した礼もそこそこに、回らない頭でグラスへと口をつけた。
はっと再び顔を上げると、そこにいたのはいつもの召使ではなかった。知らない顔だ。――いや、正確には。先程の宴席で初めて顔を見かけた、男性。私より少し年上らしい背の高いひと。
「あなた……ナーダシュディ家の」
「フェレンツと申します。以後お見知りおきを。――しかし、これは……」
ナーダシュディ家のフェレンツ――確か男爵だったかしら――は、不躾と思える程に顔を近づけてまじまじと私の瞳を覗き込む。男爵の勇ましい顔つきと体格はそれだけで威圧的だというのに、「な、何でしょうか」と私が背を仰け反っても意にも介さず好奇の目をじろじろと向けてくる。暫くして満足したのか、顔を離して彼は腕を組み歯を見せて破顔した。
「ふむ。遠目からでも十分わかり得たことですが、これは大変な美貌だ!」
――その瞬間。私の胸の中で、赤い実が弾けた。
「い、いいいいきなり何を仰るのかしら……!?」
「おや失礼、思ったことをそのまま口にするのは悪い癖だと召使からもよく注意されているのです」
悪びれた様子もなく、というかどこか誇らしげに胸を張っている男爵に呆気に取られかける。だが、ここで相手の調子に乗せられては向こうの思うつぼだ。私は戦に馳せ参じるお父様になったつもりで男爵をつと睨んでみせる。
「そのような甘言で靡く軽い女じゃなくてよ。美しいなんて日頃から言われ慣れていますし」
「無論、エルジェーベト様が才色兼備であることは存じております。五つも年上で既に家督を継いだ身である俺が恥ずかしくなるくらいにはね」
「……ふん。ナーダシュディ家の勇猛果敢な男爵のお話は幾度か耳にしたことがありますわ。それこそ私のような虚弱な小娘など相手にならないのでは」
じとりと睨めつけたまま可愛げのないことばかりを口にすると、意外にも男爵は「言い返されてしまったなあ」とでも言いたげに頭をかいている。……そう、実際にナーダシュディ男爵の噂はお父様から聴き及んでいた。武勇に優れ、いずれオスマン帝国との戦の要と目されている。お父様は随分と熱心に男爵を持ち上げていたっけ。
ああ――なら、私はこの人と結婚するのだろうか。そう唐突に理解した途端、弾けたばかりの赤い実が萎れていく。恋とはもっと秘密めいていて、当人達だけの暗黙の了解で成り立っていて、甘くとろけるようで――だからきっと、これから起こる気持ちは恋ではないのだろう。そう、冬の冷たい床のような心の私が囁いている。
であれば。私が恋をする相手など、この世界のどこにも存在しないのではないだろうか。
「武人としての名ばかり上げている身ですが、これでもエルジェーベト様とお話できる程教養はあるつもりですよ」
恭しくお辞儀をするナーダシュディ男爵に、私はソファの隣を示す。将来この人のもとに嫁ぐかも知れないというならば、これくらい構わないだろう。
「……そう。では、何かお話してくださる? 私の頭痛の和らぐ物語を」
「では、『雪白姫』は如何でしょう」
存外早くに答えを返した男爵に目を瞬かせていると、「いやなに、この間親戚の所領へ邪魔をした際に聴いた御伽噺でね」と彼はソファに沈み込む。
「雪白姫はその名の通り、雪のように白い肌を持つ玉のように美しい姫なのです。どうです? エルジェーベト様のようでしょう」
「も……もうそのお世辞は効かないわ」
「お世辞じゃありませんよ。本当のことですから」
「……。それより早く続きを」
「ええ。この雪白姫の継母の女王がとても恐ろしい人で、本当は魔女なのです。彼女は魔法の鏡を持っていて、毎日こう鏡に訊ねる――『鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?』と」
それを聴いた時、つと背筋を氷の指に撫でられた思いがした。
鏡。そういえば、私は最近鏡を見たかしら。
「でも、それは雪白姫なのでしょう」
一瞬、気分が悪くなったのを持ちこたえて私は彼に問い質す。「その通り」と頷く男爵は、私の様子に気が付いた素振りはない。
「『それは雪白姫です』と答えた鏡に怒って、女王は雪白姫を殺そうとするのです。彼女を殺せば、自分が世界で一番美しく在れるのですから」
けれど、男爵の滔々とした語りと相反するように私の頭は前にも増して酷い痛みを訴え始める。彼の語り口が気に入らなかったわけではない。この人の話を聴いていたい気持ちは十全にあった。話に聴く武人らしい逸話とは乖離した目の前の彼が、どんな人か気になる気持ちもあった。……たとえその感情が、恋ではないのだとしても。
だけど。何故だか、これ以上物語の続きを聴いてはいけない気がした。それだけの理由で、持ち直しかけていた私の調子は呆気なく瓦解していった。
「彼女は女王の命令で漁師に殺されかけますが、……エルジェーベト様? やはりご気分が優れないのですか」
口元を押さえて蹲りかけた私をみとめた男爵が、さっと顔色を変える。「だい……じょうぶです、これくらい……」そう口では言いつつも、掠れた声しか絞り出せぬ今の自分は酷く情けない。
「いいえ、無理はいけません。おい、誰か!」
男爵の声に反応した召使達が私の下へ寄って来る。加えて少し離れた場所に在ったお父様達もこちらへと眼差しを向けた。
「エルジェーベト。どうした」
「お父様……申し訳ございません。気分が優れず……部屋に下がっても、よろしいでしょうか」
「よい、無理はするな。……うちの娘がご迷惑を、ナーダシュディ男爵」
「とんでもございません。寧ろここへ引き留めてしまったのは私めの方です」
遠退きかける意識をすんでのところで保ちながら、召使に支えられて私は腰を上げる。お父様達や隣にいた男爵の様子を気にかけることすらできないで、私は広間から立ち去った。
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