鏡よ鏡 - 3/3

 召使に名を呼ばれたわけでもないのに、ふと私は目を醒ました。

 既に部屋の燈火は消されている。窓の外へ目を凝らすと、ちょうど南の空に満月が昇っていた。宴席はとうに終わりを告げただろう。
 ――結局、頭痛のせいで男爵との歓談もおざなりになってしまった。体を起こしてみると、あのずきずきと響くような痛みはどこにも残っていない。急に何だったのかしら、と自分の身体のままならなさを思いながら、私は立ち上がり燭台に火を燈す。こういう些事はいつもは召使に任せきりなのだけれど、この時間にわざわざ召使を自分から呼びに行く気にもなれない。
 ギリシャ語の筆記の練習でもして、眠気が再び降りてくるのを待とう。そう思って机に向かうと、見覚えのない手紙が一通置かれているのが見えた。差出人は――ナーダシュディ男爵だ。きっと彼に言伝された召使がここに置いておいたのだろう。思わずため息をつきながら私は封筒を開く。

 宴席から退く前に書いたのだろうから当然だが、書いてあることは簡潔だ。体調が悪い中引き留めたことへの謝罪や私の体調の心配が綴られたあと、最後はこう締め括られている――『名無しの森であなたを死出の夢から醒ます王子になれたなら』。

「……べ、別にときめいてなんか……!」

 誰に言うでもなく、ふるふると頭を振って私はこみ上げた感情を追い払う。これは文意を理解できないことへの苦しみ。きっと物語の続きを示唆する一文なのだろうが、話のさわりしか聴くことのできなかったので何のことだかさっぱりだ。そんな手紙を送りつけてくる男爵が全部悪い。……きっとそうよ。顔が熱いのだって、気のせいに決まっている。

 いそいそと便箋を閉じて封筒にしまい直し、机の引き出しに入れておく。さっきの手紙のせいで勉強をする気も削がれてしまった。こんな時は何をしたらいいかしら。何とはなしに立ち上がると、ふと傍の鏡台が目についた。
 そういえば最近は身支度も全部召使に任せていたから、まともに鏡台に向かうことがなかった。だって鏡なんて見なくても、私は私が美しいことを知っている。――それこそ、世界で一番。
 男爵が物語ったあの魔女の言葉が、いやに耳について離れない。彼の語った通り私は雪白姫なのだから、気に留める必要などないのに。そんな蟠りを抱えながら、私は久々に鏡台の前に立った。

 そこにはやはり、美しい私がいた。赤い髪に空色の瞳、瑕一つない玉の肌。ふ、と口角を上げてみせた様は、たとえ真夜中であっても花が綻ぶよう。

「鏡よ、鏡……世界で一番美しいのは、誰?」

 ――それは私。バートリ=エルジェーベト。

 私は魔女じゃない。これは魔法の鏡でもない。
 けれど、確かに鏡の中の私は、そう言って微笑んだ。

✦ ✦ ✦

 名を呼ばう召使達の声を聴いて、私は今日も夢から目を醒ます。
 けれど夢から醒めても、未だに私は夢見心地だった。

「エルジェーベトさま。おはようございます」

 召使達は今日も変わらず私の身支度を儀式のように執り行う。ドレスを選び、髪を結い上げ、口紅を引く。

「ねえ、今日も私は美しい?」

 召使達の挙動に身を任せながら、私はひとつ問いを投げかける。

「勿論でございます。昨夜はご気分が優れないご様子で心配いたしましたが」
「本当? そうよね、今日は特に肌の調子がいい気がするの」
「はい、お洋服とも相俟ってまるで大輪の白百合のよう」

 うっとりと頬を染める召使のその言葉に小さな違和感を覚えて、私は微笑むことをやめた。今日のドレスは深緑。――相変わらず私の好みではなかったけれど、齟齬を感じたのはそこではない。

「白百合? ふうん、でもそれを言うならダリアやゼラニウムじゃない?」
「……! こ、これは大変失礼をいたしました」

 私の指摘に対し酷く委縮する召使を相手するのが面倒になって、「まあいいわ」と放っておく。召使相手に貴族と同じ教養を求めるのは可哀想だ。それよりも今は昨晩から続いている夢見心地をもっと引き延ばしたくて、窓から空を見上げる。

「……ねえ、私もっと美しくなるわ。あの絵の中のお母様のように。いいえ、お母様よりももっと美しく」

 お母様の宝石箱から手にしたサファイアの首飾りを陽光に透かしてみる。お母様――ひいては私の瞳と同じ色をした宝石は、私の未来を照らすようにちかちかと煌いた。

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