幕間 明日はあると信じていた - 2/2

 決めたノックの回数と合い言葉の後、俺の名──人間の名とはとても呼べないが、それ以外に俺を識別するものがない──を呼ぶか細いあいつの声が聴こえた。鍵を回し扉を開けると、Kが部屋の中でシーツに包まってこちらを見上げている。

「大丈夫か」
「平気。あんまり咳も出なかった」

 床や布団を見た限り、俺の見ない間に喀血した様子はない。嘘はついていないらしい。無言でポケットの中から先程の薬を取り出して、水道からコップに水を注ぐと寝ていたKが背を起こそうとしているのが視界に入る。

「おい、やめておいた方が」
「いいよ。寝ながら薬を飲む方が難しい」

 そう言って笑うKの目の下には隈が浮かんでいる。留守にしていた間、きちんと眠れていなかったのだろう。

「顔色がよくない」
「Jだって」
「……生まれつきだ」

 本日二度目の台詞を口にすると、ははとKは心底おかしそうに笑った。

「確かに、会った時から顔色は悪そうだった」
「だろう」
「……でも、Jも俺と同じだよ。どっちも寿命が近いんだから」

 口に水を含ませ、瓶からスプーンで薬を掬い取る。咳き込みかけて若干粉末が床に散らばってしまったが、何とか飲み込めたらしい。これで痛みも少しはマシになるだろう。「Jは飲まないのか」と問うKに黙って首を振る。俺は身体が痛むわけではない。寧ろ痛みを知覚できなくなりつつあるのだから。

「こんなになってまで生きたいと願う俺って、おかしいかな」

 ひゅうひゅうと咽喉を鳴らすKの背を加減がわからないなりにさすってやり、再びベッドに寝かせると、飽きもせずKは意味のない問いを俺に投げかける。

「ああ、おかしいさ。そもそもこうしていること自体がおかしいんだ」

 目を伏せてそれだけつぶやくと、「それは確かに言えてる」と頬をかいてKは天井を見上げた。俺はKの顔を見られないまま、先程売人に指摘された自分の黒くまだらに斑点の浮いた手を見下ろす。握り込んでみるが、どうも感覚が鈍い。

「覚えてる? 初めて会った日のこと」

 突然Kが俺に振った話に少しだけ驚いて、顔を上げるとKがこちらを見て微笑んでいた。凡庸な笑顔だ。人間の笑顔などとは無縁だった戦場育ちの自分でもすぐにわかるくらいには、ぼんやりと気の抜けた表情だった。けれどもその目は死んでいない。この暗闇の世界の中でも確かな輝きを放っている。出会ったときと何ら変わりのないその顔つきに、俺は心底安堵していた。

「無論だ。でなければ今ここにいない」

 軍にいた頃の俺はただ職務を完璧に遂行するだけの機構だった。己の存在意義に疑問を抱くこともない。一度自分と同じ立場の者が上官に逆らって「解任」されたときだって、何も感じることはなかった。

 だが、あの時──お前と出会った時。俺は、俺自身に自我というものがあると自覚した。お前が実験台として扱われていることを間違っていると感じた時、俺は個としての意識を獲得した。だから、まだ終われない。Kは生きたいと願っている。それを諦めるわけにはいかない。Kの願いを叶えることが俺の──J-007の持てる、唯一の人間らしい望みなのだから。

「なあ、それならいい加減名前をつけよう」
「……またその話か」

 Kの星空のような瞳がきらきらと輝くのを見て、俺は思わずため息をつく。Kはこの話をするのが好きだった。「俺達が人間であるのなら名前が必要だ」と。

「コードネームがJなら、そこから付けた方がいいよな。うーん……ジョーとか? いや、ちょっとありきたりすぎるかな」

 試行錯誤を重ねるKを横目に、俺は流し台へとコップとスプーンを浸しに行く。Kとは反対に、俺はこの話が苦手だった。──何も浮かんでこないのだ。己に付けるべき名前も、Kに付けてやりたい名前も。そんな自分は結局人間の紛い物でしかないのかと自己嫌悪に陥ってしまうから。

「俺にも名前、つけてくれないか」

 それでもKは邪気のない笑顔を向け続けるので、流石に耐え難くなって俺はあいつにやんわりと首を振る。

「思いつかない」
「そんなこと言わずにさ」
「……本当なんだ。人間らしい名前をそもそも俺はよく知らない」

 いい加減つれない素振りばかり見せるのも限界だった。素直にそう白状すると、Kは「何だ、そんなことか」と言わんばかりにこちらへと身体を向けた。

「知らないなら一緒に覚えていけばいい。あ、じゃあ俺が動けるようになったらさ、旅をしよう。その内きっと俺達に合う名前が見つかるだろ」

 Kの言葉は、俺達の夢そのものだった。そう、この戦いが終われば始まる筈の、明日へと続く人間の物語。──ああ。それが現実になれば、どんなに眩しいことだろう。……いや、これはうたかたの夢ではない。この手で現実にするべき、計画の先にある確かな未来だ。

「それは……考えておく」

 俺のぶっきらぼうな回答に満足したらしく、Kは瞼を閉じる。その無防備な額に触れようとして、やめた。そのまま微かに上下する胸の動きを見て、俺達がまだ生きていることに安堵した。

 Kは俺が守る。お前の思いをなかったことになんて、させない。

 感覚の薄い拳を握りしめて、俺は湿度の高い空気とは反対に乾いた唇を噛んだ。

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