今日も今日とて、雨が地面を叩く音は止む様子がない。
せめて雨足の様子に変化はないのだろうかと思ったけれど、この世界にやってきて十日ばかり経つ現在、あまり変わり映えのしない本降りが続いている。そして私達が置かれている状況もまた、大した発展は見られない。
それどころか、このところずっと思考に靄がかかったような倦怠感に苛まれている。蛍光オレンジのレインコートは雨粒をよく弾くが、私の心までは守ってくれない。こんな気怠い心地は生まれて初めての体験だ。陽の射さないこのリアルワールドに心と体が順応していない証拠なのか。……それは、私が本を正せば人間ではないから。ただの電子生命体に過ぎないからなのか。
すると突然、隣にいたギルガメッシュが私の腕を掴んで歩き出すのに慌ててついていく。焦って近くの水たまりに足を突っ込みそうになった。正直、いきなり動くのではなくその前に何かしら合図が欲しかったところだ。む、と彼を見上げてねめつけると、ギルガメッシュは図ったように唇を吊り上げて言った。
「漸く辛気臭い顔をやめたな」
こういうときこそ、ギルガメッシュの言葉は私の心によく響く。彼の朗々とした声音には、この世界を包む霧を攘う不可思議な力が宿っているように思える。原初の王、英雄の中の英雄たるカリスマが為せる業なのだろうか。
「ごめん。何となく怠くて……」
反射的に謝ると、「貴様ともあろう者が珍しい」と少し呆れたように息をついてギルガメッシュは辺りの雑多な屋台街を見回す。そろそろ昼時だ。所謂王様が玉座にて振る舞われるような、豪勢で行儀のよさそうな食事が出てくる場所はないが、彼は案外こういう野趣溢れる食事も好む。伊達に旅慣れしていない人だからだろうか。
「……だが、斯様に光の射さぬ世界に足を踏み入れたのは我も冥界以来だ。ここは常人が生きてゆくには適さぬ。特に電脳世界に慣れた貴様が虚脱感に襲われやすいのも無理はあるまい」
何食わぬ様子で彼は再び私の手を引いて歩き出す。琴線に触れる屋台が見つかったらしい。コートの上からでも窺える均整の取れた肩幅に見とれながら、彼の言葉を反芻する。要するに「案ずるな」と言いたかったのだろう。
そう言ってもらえるのは、素直に嬉しい。今は彼を信じて前に進むしかないということもわかっている。それでも、湿気を含んだ髪の毛からじわりと服に水滴が沁み込んでいくように──デッカードや社長の言葉が頭から離れない。
「一つで充分デスヨー」
「我の言葉が聞けぬのか? だからこれを我と白野に二つずつだ」
「一つで充分、デスヨー」
「……」
屋台の板前風の老爺とギルガメッシュが噛み合わない注文のやり取りをしている間、私は支給された端末の画面を確認する。デッカードから私とギルガメッシュ宛てに一通メールが届いていた。添付された資料の中身を眺めながら、今朝見た彼の顔を思い出す。
今、私達は彼の前任者の残した犯人の手がかりや不審人物の目撃情報等をもとに屋台街──この世界のメインストリートを中心に捜査を進めていた。結局例のタイレル社社長は事件に関与していないとの結論が出されたとのことで、今はこういった地道な巡回が主な私達の仕事だった。デッカードは今日別のアポがあり不在だが、昨日までは彼とも共に街を巡っている。
これから向かうのは数日前に起こったとある殺人事件の被害者のアパルトメントだ。殺人現場は自室の階のエレベーター付近だが、私達に調査指示が下ったのはその被害者の部屋の中。どうやら被害者は殺害当日以前宿直で部屋を留守にしていたらしく、その間犯人が潜伏していた可能性があるのだという。そしてその犯人が例のレプリカント達──J-007らである可能性も。
もし彼等が犯人だったとしたら。この殺人は、きっと彼等にとってやむを得ないものだったのだろう。元を辿れば彼等がいた施設の爆破だって。そうしなければ、彼等は人として生きることはできなかった。……自分が彼等ならどうしていただろうか。そこまで考えて、彼等の姿が聖杯戦争の只中にあった自分と重なる。
私と彼等に違いはない。この世界に生まれていたなら、私だって同じことをしていた可能性を否定し切れない。……であるならば。私はデッカード達の言う通り、壊れた人形なのかも知れない。
「白野」
とん、と肩を叩かれて隣を振り向くと、ギルガメッシュにどんぶりを突き出される。何やら麺類──うどんに似ている──を頼んでくれたらしい。ということは先程の注文がうまくいったのか。
「あ……うん。ありがと」
漂う湯気から出汁が香っている。思わず鳴りかけたお腹をこらえて手を合わせ、既にどんぶりに差し入れてあったフォークを手に取る。箸は見渡す限りなさそうだった。
「それで。レプリカントと呼ばれたことが未だ気にかかっている顔だが」
ずるずると麺を啜っていると、ギルガメッシュが水を飲みながら話しかけてくる。同じメニューを頼んだらしいが、一つで充分と言われていたのは結局何だったのだろうか。……だが、今はそんなことより彼の問いが胸に重たく圧し掛かる。
「……私だって、壊れたロボット扱いをされたら辛いもの」
いつか突っ込まれるだろうと思っていたことだ。寧ろ今まで訊ねられていなかったことに驚くべきだろう。慣れない世界で、私が色々と考える猶予を与えてくれていたのだろうか。思うに、このリアルワールドに来てからの彼は普段より少しだけ優しい気がする。
電脳世界で落ち込んだ時、ギルガメッシュはその状況を静観するよりも回りくどく尻を叩いて叱咤激励してくれることの方が多かった。「我が共にいる今、何をうじうじと悩むことがあるのか」と。……だけど。彼と出会う以前既に生まれていた【岸波白野】という魂を否定されたことについては、私自身が答えを出さなくてはいけないと思う。
これは私の物語だ。ギルガメッシュはその物語の登場人物だが、同時に読者──私の行く末を裁定する者でもある。だから私も彼が見届けるに相応しい、納得できる答えを見つけなくては。物語の結末はきっとここではないのだから。
「存外お前も未だ生娘のような顔をするのだな」
と、長々感じ入っていたところに彼が茶々を入れる。前言撤回してやろうかこのストーリーキング。「今何でそんなこと言うの!?」とフリでも拳を突き上げるも、「AUOジョークだ」と躱された。……まあ、千歩ほど譲って私の肩の力を抜かせる為にそう言ってくれたのだろう、と好意的に受け取ってあげようか。
「よいか。我等は確かに今このリアルワールドの生命体として生きている。しかし、ここはどうあっても我等の故郷ではない。我は地球の生命体であった人間の裁定者だ。もっとも貴様は月生まれだが、元になった命は地球にある。故に今の我は貴様一人の生を見定める者。受肉した今でもそれは変わらぬ」
乳白色の麺を啜りつつ、ギルガメッシュは明朗な声で語り始める。この猥雑な雨模様の屋台に在りながら相変わらず星を吟じるような調子で、どこへ行こうとも彼が変わらず王という存在であることを実感させられる。
「ちゃんとわかってるよ。ギルが私を人間だと認めてくれてることは。……月の裏側でも言ってくれたでしょ、人間はどう生まれたかではなくてどう生きるかが重要なんだって」
「貴様にしてはよく覚えているではないか。では何故、それでも自分が気を落としているのかわかるか?」
「それは……」
確かに、その辺りを言語化していなかった。漠然とデッカード達の言葉にショックを受けてはいたが、そもそも私はどうして「嫌だ」と感じたのだろう。
私は元はただのNPCだった。たまたま自我を得て聖杯戦争に参加することにはなったものの、聖杯に接続すれば不正データとして分解される運命にあったのは事実だ。それは充分理解しているし、それを知った上で私は熾天の檻にてトワイスを斃した。
だというのに、私が彼等の言葉に落ち込んだ理由とは──
「私、ギルにここまで連れてきてもらってばかになったのかも」
「……は?」
訝しげにこちらを見遣るギルガメッシュに私はうんと一つ頷く。
「幸せばかなんだ、私。デッカードや社長の話をムーンセルに分解されかける前に聞いてたら、多分こんなにショックは受けてない」
そう、私は人間であってもデッカード達の言う「人間」ではないことなんて、とっくの昔にわかっていたことだ。ただ、久々に突き付けられた現実に茫然としてしまっただけ。思い出してしまっただけ。分解されかける時に抱いたあたたかなものへの希望と──ほんの少しの寂しさを。自分という存在が失われることの恐怖を。
「でも、ギルが月から連れ出してきてくれたから。私はまだ終わらなくていいんだって、人間なんだって認めてくれたから、もう迷わなくていいんだと思ってた。そんな時に不意打ちで人間じゃないって言われて……」
必要以上に動揺を見せてしまったのは、その幸せに水をかけられたみたいな気分になったから。多分、そういうことなんだろう。
思いついた通りのことを口にして、再びギルガメッシュを見上げると──何故か彼はわざわざ顔を逸らして水を飲んでいる。
「ギル?」
彼の後頭部の丸みをじっと見つめて応答を促すが、返事がない。……と思った矢先、「たわけ」と一言だけ投げつけられた。
「……もしかして」
照れてるの。その問いかけをぐっと堪えて彼の服の裾を掴むと、ギルガメッシュはいきなり振り返って「麺がのびるぞ」とフォークで私のどんぶりを指し示した。彼の言う通りなので、再び麺を啜り始める。これ以上の追い打ちは危険だ。何というか、私まで気恥ずかしくなってしまうから。
「ギル」
「何だ」
「私、まだ終わりたくないよ」
レンゲで汁を掬い取りながらぽつぽつと呟くと、ギルガメッシュは今更と言わんばかりにこちらへ視線を差し向けた。
「貴様の持って生まれた可能性は、貴様自身が決めるものではない。この世界に生きる者が制限するものでもない。──真実を知ってなお、歩みを止めぬものこそが人間に宿る魂よ」
「……うん。なら、やっぱり私は人間だ」
ギルガメッシュの言う通りだ。私は「人間」ではないかも知れないけれど、それでも人間だ。どんなに否定されようとも、もう私は岸波白野として目覚めてしまった。それなら、最期まで岸波白野として生きるしかない。立ち止まることはあっても、立ち止まり続けていることはできない。
私は──まだ、この王様とまだ旅を続けたい。知らないことを知っていきたい。人間として生きる愉しみを見出したい。だから、誰に何を言われたってとことん胸を張るしかないのだ。
「でも。もう一つ、引っ掛かっていることがある」
「──追っているレプリカント共のことか」
彼の見立て通りだと、私は頷く。J-007、K-404──彼等はおそらく、私と同じだ。「人間」ではなくとも、きっと己が人間であると自覚している。
だが、私は一時的とはいえデッカードと同じブレードランナーだ。人間に反抗するレプリカントを「解任」する役目を背負っている。そして、この事件の解決に協力しなければ私達はこの惑星から出ていくことはかなわない。
「私は……彼等の命を奪いたくないんだと思う」
「前に進むため、友を殺すことを決めた貴様が?」
底意地の悪さを装って──いや、本心であることには変わりはないのだろうけれど──悪辣な笑みを向けるギルガメッシュをまっすぐ見返す。ああ、この魔性めいたルビーの眼光。彼の苛烈な瞳に射抜かれるとき、いつも心が震える。その震えは彼という存在への怖れや畏れ故。だが同時に、彼の千里眼に魂の形を狂いなく見抜かれていることへの歓びが確かにある。
「それでも、だよ。だって人間ではあっても『人間』ではない私が、同じく『人間』ではない人間の命を奪うなんて──自分自身を否定することに、ならないかな」
もう、どんぶりの中には汁しか残っていない。ギルガメッシュの方も同じだ。彼が座席から立ち上がるのを見て、私も腰を上げる。
傘を開いて再び雑踏の中に紛れながら、ギルガメッシュは口を開いた。
「では、会って確かめるしかあるまい」
「え?」
端末を開き、ナビをタップしながら何でもない風に彼は言う。先の劇薬のような視線を浴びた直後だったからか、私は若干拍子抜けしながらギルガメッシュを見上げる。
「あのレプリカント共と会い、言葉を交わせ。そして自分がどうすべきか──いや、どうしたいかを見極めよ。そうでないと納得せんのだろう」
そう言って、ギルガメッシュはふと微笑を零す。穏やかと言うには少し厳しい。けれどつい先程の意地悪い嗤い方でもない。だから、私もいつの間にか彼に頷いていた。
聖杯戦争の折、私は対戦者達と少なからず言葉を交わした。彼等がどんな願いのため命を賭しているのか。私に戦う資格はあるか。……そのたびに得た納得が十全だったとは今でも言い難い。それでも、私は私の意志で前へ進むことを決めた。
ならば、会って確かめないと気が済まない。何もわからないまま、命を奪うことは許せない。
「繰り返すが、我はお前の裁定者だ。あの者共は我が処断すべき命ではない。我はただお前の見定めた通りに動こう」
彼にはあくまであのレプリカント達を裁く意思はないようだった。というか、この世界に来てから彼は意図的にこの世界の人々と自分を線引きしているように見える。そういえば以前、受肉しているか否かによって人間に対する態度が変わるなどと言っていたような気もする。
だが、それでもここは私達の故郷ではない。この世界の人々も地球の人間に似てはいるが、私達と同じ歴史を歩んできた人間ではない。だからギルガメッシュが彼等を裁く道理はない。今の彼が見定めるのはどこまでいっても私だけだ。そう考えると正直背筋が伸びる。彼にとっての人類代表は私、と言っても過言ではないのだから。
「……ちなみに。もう何か見抜いたりしてるんですか、ギルは」
「それを言ってはつまらぬであろう?」
「さいですか……」
ふふん、と鼻を鳴らすギルガメッシュにため息をつく。そうだ、この人が簡単に愉悦を手放すわけがない。私が悩んで苦しんでいるところを散々笑って、それで──もがいて手に取ろうとした答えまで導いてくれるのだろう。だから、この人にはかなわない。
──それでも、私は彼の愉しみそのものだ。なら私は私の思うまま、精一杯もがいてやるしかないんだろう。
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