さよならアルブレヒト - 1/5

Fate/EXTRA
メルトリリスとマスターの話 弓←女主前提 学パロではない


 バレエ道具を引っさげて私は喧騒をあとにする。教室には帰る生徒、帰らない生徒、笑い合う生徒、勉強している生徒、背を向けて密やかな会話に興じる生徒。皆ばらばらに息をしながら教室の檻に囲われ、緩やかに外界へ放たれていく。ここは未熟な人間たちの箱庭。生徒という肩書きがあれば誰もが事実上の存在を許される飼育箱。何故皆その息苦しさに気がつかないのか。どうして誰もここから抜け出そうとしないのか。馬鹿らしいと心の中で吐き捨てて、いつも私は敷居を跨ぐ。あと三十分で大好きなバレエの時間。こんな水中庭園からは早々に抜け出して、帰り道の三つ目の角を曲がらなくては。

 私は次の公演の演目『ジゼル』の主役。『ジゼル』は本当に大好きな作品だったから、主役に選ばれたことは必然であり運命なのだと強く信じている。バレエをいつ始めたのかはもう覚えていない。けれど、初めて見た『ジゼル』はまだ何も知らなかった私の心を焼き焦がすほど美しく強烈だった。病弱でありながら踊りが大好きな村娘ジゼル。恋人ロイスが貴族アルブレヒトだと知らぬ無邪気な少女は、つまらない人間の仕業で真実の彼と婚約者の存在を知り錯乱する。そのまま狂死した彼女の成れの果てが男を踊り殺す乙女の精霊ウィリだったという展開。舞台を包む仄白い少女たちの繭から蒼く立ち上る冷気は、見ている私の心まで凍りつかせた。そしてすぐさま理解したのだ。この物語こそ少女性の極致。私の踊るべき詩がここにある。

 けれど同時にこうも思っていた――この物語の終わりには納得がいかない。だって、彼女はあろうことか、物語の最後で彼女の墓を彷徨うアルブレヒトを逃がしてしまうのだ。だから私は、このジゼルという少女を超えた少女であれると。

 ジゼルが真実に錯乱したのはきっと、彼女が自分自身の少女性に無自覚だったからだと思う。彼女はウィリになることで自らに宿る〝彼を愛する力〟に気がつけたはずだ。私ならばそこで彼を逃がさずに、仲間の精霊達さえ届かぬ場所へ彼を連れて行って、彼と永遠に踊り続けるでしょう。円を描いて回って、絵本の虎がバターになるように愛した人と溶け合うだなんて、それこそ私が求めている愛の形だ。彼を愛しているならば、彼が手に入らないというならば、手に入れられる力を持てばいい。その力で彼を自らの内に誘えばいい。だけど――愛に狂って死んだのに、鳥籠にだって閉じ込められたのに、どうしてジゼルは彼を逃がしたか。それだけが今でも腑に落ちないのだ。

 もちろん、その一点を抜きにすれば『ジゼル』は「私」という個の興味を決定づける運命的な作品だった。以来ただずっとバレエばかりに没頭している。『白鳥の湖』は、オデットとジークフリートが冷たい湖に身を投げて死ぬから、好き。『瀕死の白鳥』も、もがき苦しみながらそれでも羽ばたこうとする白鳥が気高くて美しいから、好き。『眠りの森の美女』のオーロラ姫は一番上の姉に似ていてあまり好きじゃないけど、『くるみ割り人形』のクララにはなってみたい。だってクリスマスプレゼントの人形が凛々しい王子に変身するのだもの。本当は王子が人形になってくれる方が嬉しいけれど、きっと元が人形だったなら王子に変身したって人形のはずだ。私だけの、王子様。妹もよくそんな言葉を呟くけれど、妹にとっての王子様は絶え間なく彼女に愛情を注ぐ存在。その点あの子の愛は他者を必要とする不完全な欠陥品だ。他の姉たちのだって大差はない。

 でも、私の王子様は違う。相手から求める感情なんて何一つない。王子様は人形であればそれでいい。私の愛の囁きを物言わずに聴いてくれる、私がピルエットするのに合わせて私を支えてくれるプリンシパル。私に似合う王子様――ああ、あのひとが、本当にくるみ割り人形から出来ていたならいいのに。

 こんな風に、私がバレエや人形が趣味であることを知っている人は少ない。あのひとだって知らないのだから、不本意ながら一緒に暮らしている姉妹ぐらいだろう。友人などいないのだからそんなものだ。知られたところでどうせ馬鹿にされるだけ。同調も共感もいらない。私は私の作り上げた完璧な物語の中で人形の王子を抱く、孤高のプリマドンナで居られたならそれでいい。

「はい、ちょっとそこまで」

 蕩けるような思考でつま先をぴんと立てて踊っていると、それをふつりと切り取るような女の声。物語の中のお姫様を演じるには不必要な、いやらしい女の体が近づいてくる。抜け目のないボディラインは、甘美な肉の味を知らぬ者すら引き入れるのだろうけれど――完璧な少女である私は騙されない。レオタードの裾を少し引き伸ばして、いつも以上に背筋を張り詰めて、足を三番の位置に。バレリーナの臨戦態勢はこれであるべきだと、私は常々思っている。

「彼と彼女にはちょっと休憩を。あなた、子供たちの砂糖菓子の合わせをやっておいてもらえますか?」

 不意な休憩の入れ方に手を翻して、アルブレヒト役――こんな男をアルブレヒトと称するのは甚だしく遺憾だが――のパートナーは「どーも」とすぐに水を持ってスタジオを出ていってしまった。女が声をかけた先からは、妙に背丈の小さな男が「言われずともわかっている」と、双子のお人形を伴い入れ替わりに入ってくる。黒と白を対にしたこの二人、教室ですれ違う度にどうにか部屋のコレクションに加えられないかと思うくらい繊細な顔立ちをしているけれど――今はこの女の一言一句に集中しなければ。「おけいこ終わったら、もっとお話して!」とせがむ人形の声を背に、私は女をきつと見据える。

「藤村先生」
「ええ、少しお話ししましょう。終わったら今日は帰っていいわ」

 そう言って女は私をスタジオの出入り口まで連れ出した。本当に舞踊の徒なのだろうかと思うほどに緩慢で牛みたいな歩き方。隠すつもりもない嫌悪感を顔に、トゥシューズの爪先をこつこつ鳴らしながら連れ立って歩いた。

「私、どこか間違えたのかしら」
「いいえ、いいえ! 踊りそのものは本当に素晴らしいわ。欠かさず練習している努力の賜物ですね」

 何を今更この女は、と睥倪すると、しかし女は私の真意にも全く気がつかないふりをして言葉を続けた。

「けれど――私、あなたがジゼルと正反対のように踊っているようにしか見えないのです」

 ――何ですって?
あまりの言葉に、私は前で組んでいた指先をきつく締め上げる。私がジゼルと、正反対? 何を――少女の心なんて忘れてしまっている癖に。完璧な少女たる私が、どうして彼女の思いを読み違えることがあろうか。私こそがジゼルという存在を更なる高みへと導ける彼女の真の理解者。それを否定する人間は全員害悪、恥ずべきものだ。それなのに――声を出そうとしても、バグを起こしそうな程熱を持った思考回路が私の声帯を取り上げる。早くこの女にそれは違うと言わなければならないのに、どうして声が出ないのだろう。女の視線は残念そうに、冷酷に、悩ましげに私の体を撫で回す。

「そんなこと……ないわ」
「……あなたの愛は本当に素敵ね。その狂おしく激しい、永遠を求める愛のかたちは肯定致しましょう。けれどジゼルを踊るには――別の愛を知らなくてはならないでしょう。それがわからなければ、あなたにジゼルは踊れないわ」

 どうにか絞り出した反駁など軽く受け流し、女は身を翻して楽しげな音に満たされたスタジオへと歩き出す。

「明日のお稽古はお休みなのですから、たまの息抜きでもしてみては如何?」

 私は鳴り続ける砂糖菓子の音楽が終わるまで、一歩も動くことが出来なかった。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、3回まで送信できます

送信中です送信しました!