さよならアルブレヒト - 2/5

 木製の階段は軋む。階段を降りるときはトゥシューズを履いているときのように甲を出して、爪先を伸ばしながら。バレエを習い始めた時から私自身に設定したルールの一つだ。

 バレエのない日に、学校の大嫌いな私が校舎に残っている理由はただひとつ。銀色に灼けた鋼鉄のようなあのひとと喋りたいから。何故か私が行く先々に彼は居ない。勿論、毎週水曜三時間目は彼の授業で、いつも休まず眠らずしっかりと受けている。けれど授業の後に彼に話しかけようとすると、いつの間にか彼は居なくなってしまっているのだ。廊下ですれ違うことも出来ないし、職員室に行っても留守なので面会が適わない。窓硝子越しには彼が視認出来るのに、どうしてこんなにタイミングが悪いのか私には全くわからなかった。わからなかったけれど、居ないなら探すしかない。私はいつも、バレエが休みの日は彼を探して校内外を歩き回っている。

「え? 帰った?」

 職員室でいつものように彼の所在を尋ねる。だらしなく太った女教師が「そーっスよ」と素っ気なく答えた。大体彼はいつもはこの時間、校内に残って備品の修理や授業の準備を行っていることが多いようなのに――「わかりました」とだけ返して、私は直ぐにその場を立ち去る。こうしてはいられない、早く坂の上の彼の家に急がなければ。彼の家の住所は勿論知っている。今まで辿り着けたことは一度もないが、それはきっと色々な事の巡り合せが悪かっただけだ。それに、彼にはどうしても今日会いたい。昨日あの女に言われた言葉が妙に気にかかって仕方がないから。

(あなたにジゼルは踊れない)

 あんな言葉に惑わされるのも馬鹿らしいし、思い出すだけで屈辱的だし――とにかく彼に会ってエネルギーでもドレインしないと気が済まない。今日こそ彼の家の前で待ち伏せして彼に鉢合わせしてやるのだ。肩で風を切りながら私は校舎を飛び出した。

 彼がいつも通っているであろう帰り道の途中に、そこそこ大きなスーパーがある。様々な商品の値札に「特売」という文字が踊る店頭を横目でちらと見遣った。――彼は授業中の雑談から推測するに、日々の料理が趣味らしい。今はタイムセール中のようだし、庶民的な彼はこの為に仕事を切り上げて、このスーパーで買い物中なのかも知れない。足を止めて、彼が居るなら私のことを見つけやすいように髪をかき上げて店先に踏み入る。スーパー独特の野菜や鮮魚の生臭いにおいは、美しくなくて好きではない。けれど彼を探す為とあらば詮無きことだ。コーナーとコーナーの間をすり抜けて、あの美しい背中を探す。こういう時背が小さいと本当に不便だ。男性とアダージョを踊る時には身長が引き立って良いのだけれど、あらゆる者たちに見下ろされている感覚が我慢ならない。彼のように高い目線から物を眺められたら、どんなに快感なのかしら。

 そうして二度ほど中を巡回したものの、やはりここには居ないようだった。――だめね、彼のこととなると勘が鈍くなるみたい。スーパーを出て彼の住む家の方へと一歩足を踏み出す。

――――。じゃあ、忘れ物取ったらすぐ帰るから」

 鈴なりの声が、不意に耳に入った。
 聴き覚えは多分ない。知っている誰かの声に似ているというわけでもない。いつもなら路傍の見知らぬ人間の声なんて耳に入らないのに。妙な違和感を覚えて、声のした方に体を向ける。
スーパーの入口には、あんなに探していた、荒削りのルビーのようなあのひとが――どこにでもいそうな、石ころみたいな女子高生を伴って談笑していた。ちらと見た限りではとても地味な少女だ。ヘイゼル色のふわふわ伸びた長い髪ぐらいしか特徴がない。黒いセーラー服、赤いスカーフだから、学年はわからないが私と同じ月海原学園の生徒だろう。彼女に対面している彼の顔がどんな表情をしているかは見えないけれど、彼の両手には一人分とは思えない量の食料品が詰まった袋が握られている。程なくして家路を歩き出した彼は、死角にいたらしい私には気がつかない。それを、名も知らない女子高生は「よろしく」と小さく手を振って見送っていた。

 ――目障りね。

 思わず鞄に付けていたトゥシューズ柄のワッペンを引き抜いて、針を構えた。……ところで、流石に踏みとどまった。今ここで何か面倒事を起こしたら、この距離だと彼に見つかってしまいそうだし――何故か、心の中で彼女を傷つけることに対して躊躇いが生じていた。その理由が自分でもよくわからないまま、構えた針を下ろして鞄に付け直し、無防備に学校の方へと歩きだそうとしていた彼女へ駆け寄る。

「あなた」

 私の声を聴いて、「はい?」と彼女は歩みを止めて振り向いた。
 意志薄弱そうなぼやけた瞳が私を映し出す。――間近で見れば、それなりに整った顔立ちみたいだけれど。どうして私がこんな女の子に躊躇したのかわからない。せめてビスクドールみたいな子なら納得したかも知れないのに。「あ、」と彼女が何かに気がついたかのように声を漏らしたが、今はどうでもいいことだ。どうしてこんな子が、私の先生に近づいているのか。一刻も早く排除しなければという心の声を優先させる。

「ちょっと、今のはどういう――
「……あの、手。大丈夫?」

 緊迫感のない声が鼓膜を揺らす。彼女は少し困ったような顔をして、人差し指を私の右手に向けた。

「は?」
「血が出てる。……絆創膏持ってないの? ちょっと待って」

 釣られて手を持ち上げて見る。すると、指にぷっくりと血の球体が付着している。これは――もしかして、さっきワッペンを握った時に誤ってつけてしまった傷だろうか。「二人とも保健係なんだから、妹にも持たせてあげればいいのに」と言いながら彼女は学生鞄の中から絆創膏を取り出し、私の手を取って絆創膏を巻きつける。……不覚にも、どうすべきかわからなくて彼女にされるがままになってしまった。別に痛覚なんてないから、塞がる傷なら放っておいてもいいのに。少し気まずい面持ちで、目を逸らしながら言葉を続ける。

「お……お礼は言うけれど、あなた何? 初対面の私にどうして」
「ああ、初対面だけど知ってるよ、メルトリリス。初めまして。桜とBBの妹さんでしょう」
「え――

 彼女は私のことを知っていたようだった。姉のことも知っているらしい、ということは姉達の同級生だろうか。よく通る声で名前を呼ばれて悪い心地はしなかったけれど、妙に年下扱いされているのが癇に障る。

「ごめん、名前言ってなかったよね。私は岸波白野。桜のクラスメイトでBBの同級生」

 きしなみ、はくの。不思議と耳に馴染む名前だったが、やはり聴き覚えはない。気がつかない間に廊下ですれ違ったりなどしていたのだろうか。それとも姉達が話していたのを小耳に挟んだのだろうか。いや、今はそんなことよりも彼女に訊かなければいけないことがある。咳払いして、しっかりと瞳に岸波白野を捉え直す。

――せんせい」
「え?」
「あなた、先生とはどういう関係なの」
「え――

 訊ねられるだなんて思いもよらなかったという顔で、彼女はひどく狼狽えた。俯いてどう答えたものか、と逡巡している様子だ。……こんな地味な女の子が、彼の隣に居るだなんてますます解せない。彼はあまりにも女を見る目がないのではないか。私が苛々した様子も隠さずにいると、観念したように彼女は小さくため息をつく。けれど、どこか嬉しそうに口元に紅がのったのを私は見逃さなかった。

「その……先生は、私と弟が住んでる家のご近所さんなの。両親があんまり日本にいないから、よくごはんを作りに来てくれてて――

 彼女は困り顔ながらも、自分の中に押しとどめている感情を隠しきれずに言葉を紡ぐ。――そこから先は、聴く必要がないと私の心のプログラムが判断した。彼女は何かまだ喋っているようだったが、聴こえてこない。私は昨日のあの女の「あなたにジゼルは踊れない」という言葉のリフレインに意識を預けていた。
 何が「踊れない」よ、あの女。これじゃあほんとに私が――ジゼルじゃない。けれど不思議と怒りや憎しみのような醜い感情は覚えなかった。狂乱の場でジゼルが感じたのは悲しみと憤りだっただろうけれど、私は彼女のようには狂わない。代わりに立ちあらわれたのは多分――優越感に近いもの。だって、彼女は確かにとっても邪魔だけれど、私が永遠の少女になる為には必要な契機だったのだ。彼女と出会うことで私は少女の化身となり、この身の内にあのひとを招くことができる。

「あなたは不完全なバティルドね」

 だから野の石ころのような彼女には少し贅沢すぎるけれど、アルブレヒトの婚約者の名前を与えよう。
 え、と間抜けに呟く彼女に私は冷たく口角を滲ませる。

「あなたは欠けた夢を紡いで生きているだけのお人形さん。私、お人形は好きだけれど、あなたがバティルドなら話は別よ。私の前にも彼の前にももう現れないでくれるかしら」

 そう言い放つと、彼女の顔がみるみる赤くなっていく。「え――まさか彼って……アングラー案件!?」なんて、よくわからない言葉をぼそぼそ自分に言い聞かせているみたいだけれど、これで本当にもう用はない。ジゼルとバティルドはあの森の中でしか出会うことはないのだから。私は錯乱も自死もせずにジゼルになった。私は永遠の少女として、『ジゼル』を踊り切ってみせる。確信の笑みを浮かべて、私は身を翻して歩き出した。

「ちょ、待ってメルト――
「私はジゼル。そしてジゼルを超える完璧な少女。アルブレヒトは逃がさないわ」

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