翌日、土曜日。今日は学校はなし。バレエの練習は夕方からだから、それまでは自由時間だ。姉達は何かいそいそと念入りに着る服などを吟味して一緒に家を出て行ったが、珍しいこともあるものだ。妹はいつものごとく、部屋にひきこもって家の食料の一角を崩そうとしている。
バレエが始まるまで、私のやることは決まっている。あのひとの経過観察。それに尽きる。いつもは部屋に並べた人形たちの手入れでもしているのだけれど、ここ最近はずっと彼にかまけてばかりだ。人形たちには申し訳ないけれど、彼をこのコレクションに加えたらきちんと構ってあげるつもりだから我慢してほしい。服の下にレオタードを着ておいて、私は家のドアを閉めた。
角を曲がって、バレエ教室の前をすり抜けて商店街を通る。雑多な造りだが、かわいい雑貨屋さんやフィギュア専門店があるので店のラインナップには概ね満足している。そうは言っても、そのような店にあの人が現れるとは思えないので――やはり彼の家路を辿ってみるのが最善策なように思う。もし居ないなら居ないで、張り込んでおけば帰りに鉢合わせることが出来るのだから。通りを抜けて、住宅街の方へと足を速める。
「――、――――――――? ――!」
鈴が落ちたみたいな声。
……まさか。嫌な予感のままに振り返ると、元きた道の奥の方に――一日ぶりぐらいに岸波白野の顔が、あのアーモンドみたいな瞳を歪ませている様子が、視界に入った。そして同時に、あのひとの後ろ姿も。
「――――」
「――――――! ――――!」
先生とあの子は、喫茶店と雑貨屋の間のあたりで立ち止まって何か言い争いをしていた。今日は休日だけれど人通りが少ないので、少しだけ目立っている。意思薄弱な人形かと思えば、意外にも気は強いらしい。……いや、彼にだけああいう性格なのだろうか。思わず通りの真ん中で足を止めたまま様子を見ていると、彼女はもういい、という風にこちらへ走り出した。私は咄嗟に身を隠そうとしたが、その向こうには彼女を追いかけようか躊躇している様子のあのひとが居る。
そうだ、これを逃したら、きっと今日はもう会えないじゃない!
その一瞬の躊躇いが、隙を与えてしまった。
「……メルト」
彼女の双眸が私を捉えてしまう。気がついた彼女は走っていた足を止めて、とぼとぼこちらへ歩み寄ってきた。
――面倒なことになった。どう接したものかわからずに黙っていると、彼女は昨日と同じく「こんにちは」と曖昧に微笑む。
「――彼と何をしていたの」
「……えーと」
あからさまに目を泳がす彼女に更に苛立ちを感じて、私はまたワッペンの針を向けた。「言わなきゃ刺すわよ」まあ、冗談ではあるけれど――冗談なんて、考えたこともなかったけれど。そう脅してみると、彼女は着ているニットの袖を口元にあてて、顔を強張らせる。
「えっ……! べ、別に変なことはしてない、んだけど」
「本当かしら。あなたは私とのルールを破ったんだもの。信じられないわ」
「ルール? って?」
「私の前にも先生の前にも現れないでって言ったでしょう」
一瞬ぽかんとしたあと、戸惑いとちょっとだけ納得いかなそうな顔をして、「そう言われても」と苦笑した。
「無理じゃない? 私も先生もメルトと同じ学校にいるのに」
「それは、……そうだけど」
自分の言ったことの実現性の低さについて指摘されたことよりも、彼女のそのくしゃくしゃに握ったような微笑みが何故だか耐え難い。その理由は何故だかわからない。
「先生とはちょっと喧嘩しちゃっただけ。メルトはどうしてここに?」
「――別に。ちょっとバレエの前の暇つぶし」
「あ、やっぱりバレエやってたんだ!」
突然何か合点がいったように目を輝かせる岸波白野に息が詰まる。彼女に言うつもりなんてなかったのに、口を滑らせてしまった。
「やっぱりって何よ」
「調べたの。ジゼルってバレエの作品なんでしょう」
「……何ですって?」
思わぬ単語が彼女の口から零れ出て、私は咄嗟に聴き返すと彼女はそう「間違ってたかな」と首をかしげる。昨日の私の呪いの言葉を、いちいち彼女は反復して調べまでしていたらしい。
「バレエ好きなの?」
「――好き、に決まってるじゃない」
「そっか。メルト、すごく細いもんね。バレリーナみたい」
そんな風に薄ぼんやりした瞳で微笑む彼女を見て、何かまた心の中が変に乱れた。「みたい、じゃないわ」と少しきつめに反論する。
「教室内ではプリマドンナよ? 今度の公演は私がジゼルを演じるんだから」
「すごい、本当にうまいんだ。私もメルトのバレエ見てみたいな」
社交辞令なのか本気で言っているのかわからない、いや、きっと彼女からしたら本気らしい声色で、彼女は目を瞬かせる。――あの時は呪いを送った筈なのに、何故か彼女に喜ばれているこの状況は甚だ不満だった。けれど、勝手に「……来月始めの日曜、月海原ホール」などと口が動いてしまったのは、どうしてかしら。とても不可解だ。
「でもジゼルって、悲しい結末なんだ」
「は?」
「確かジゼルは好きだった男の人に裏切られて死んじゃって、妖精? になるんでしょう」
突然そんなことを言い出した彼女の方を向くと、彼女が少しうつむいて豊かな髪を小さく揺らすのが見えた。少しだけ目を伏せると、意外と生え揃った睫毛が長くて――ちょっとだけ綺麗だった。路傍の石ころのように思っていたけれど、案外花と言ってもいいのかも知れない。私は組んで遊んでいた両手を止めて、彼女に答える。
「――ええ。妖精なんて生易しい響きのものじゃないけれど。この世で最高に美しい怨霊みたいなものね。彼女の仲間の精霊達の輪に迷い込んで死にかけた彼を、彼女は助けて人間界へ逃がす」
「悲しい――けど、優しい終わりだね」
どうしてだか、その彼女の声色につられて思わず口が滑った。
「……私はジゼルを超えた少女になるの」
言葉の真意がわからないと不思議そうにする彼女に対して、私の口は勝手に動いていく。
「ジゼルは愛していたアルブレヒトに裏切られて永遠の少女になるでしょう。でも、漸く愛しい彼を手中に収めたと思ったら彼女は彼を手放してしまった。私にはそれが解せない。どうして彼女は彼とひとつにならなかったのかって。愛しているなら、全てを求め尽くしてひとつになるしかないって、私は思うの。二人が一人になるまで溶け合い愛し合う、それが本当の理解というものじゃないかしら」
息も吐かずに一気に言葉を並べ立てると、彼女は「それを愛と呼べるかどうかはちょっとわからないけど」と苦笑しながら頬をかく。
「確かに私も、先生に裏切られたら怒るな」
ていうか、もうあと五回ぐらいあの人には椅子投げてもいいと思う。裏切られたわけじゃないけど。裏切られたわけじゃないけれども。そうぼやいて彼女は口元を歪ませ、片手の拳を振り上げる。結局、彼女が彼と何について争っていたのかは聞かずじまいだったが、もしかしたら彼の女性関係の問題だったのかも知れない。……そう思うと、何故私はそんなひとにここまで惹かれているのかと疑問に思ったが、彼女が手を開いてついたため息に全てかき消される。
「それでも、最後は許しちゃうかも知れない」
彼女はそう、少しだけ照れて笑んだ。
(――いけない)
その彼女の微笑みか、それとも彼女の言った「許す」という言葉に引っかかったのか。胸の内が急に痛みを訴える。恐怖ではないが歓喜でもない。ただ、心臓が震えた。それだけ。それこそ、ジゼルが心に受けた衝撃の為に、自らの心臓を止めた時のように。
「……それは、どうして」
冷たい汗が一筋流れていくのを感じながら、それを尋ねてしまってはいけないと思いながら、私は彼女に問いかけた。彼女は彼との別れを想像してしまったのか――少しだけ寂しそうな横顔を見せて、ふと私の方へ向き直る。
「どうしてかな。自分との関係が本当に遊びで、お墓参りにも来ないっていうなら許せないけど――それでも、たった一人で森の奥の寂しいお墓に花を供えに来てくれたんでしょう。アルブレヒトは彼なりに悔やんでいたんだと思う。その気持ちがジゼルには伝わったから、彼を帰してあげたんじゃないかな。
――だって彼女も、彼に恋してたんだから」
その言葉に。
その言葉が、引き金になったように。
私は私の針を引き抜いて、彼女の胸に突き刺していた。
え、という声が、彼女からも私からも同時に、零れる。
私は呆然と針を突き立てる自らの手と彼女の顔を、見回した。彼女も意味がわからない、といった顔で自分の胸もとを見下ろしている。違う。違うの。こんな、何で私はこんなことを。確かに無意識によく針を抜く癖はあるけど、「私」は別に誰かを刺したり傷つけたりなんてことは、しない。
(本当にそうだったかしら?)
どくんどくんと、心臓が鳴り響く音が。うるさい。
程なくして彼女はぱさり、と軽い体をしならせて床に崩れ落ちた。(死んではいないわ)つられて針を引き抜くと、そこには――紅の血の代わりに、水色の液体。(懐かしい)何、何よこれ。毒? 蜜? (何かってことぐらいわかってる)怖い、怖い、知らないわ、私が私じゃないみたい。(思い出すのよ)けれど私の左手は、その意思とは反対に徐に動き始める。(さあ、彼女に封じ込めた思い出を)そして針の先に触れ、ちくりとした痛覚が指の表皮を走る、
「――――……!」
そして私は目を醒ます。
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