ギルガメッシュがエンジンを切ると同時に、シートベルトを外してドアを開ける。吹きすさぶ雨は凄まじいが、もう傘を差している余裕はない。近くに降車したデッカードが「こちらへ!」と私達を呼ぶのを確認し、屋上の出入り口を目指す。少し遅れて駐車場に着陸した黒塗りのスピナー達から、続々と機動隊らしき人々が銃を構えて出てくるのが見えた。
「あの人達は?」
「特別に許可が下りました。タイレル社社内に限り彼等特殊部隊を同行させます」
デッカードは言いながら屋上の出入り口の扉を開き、階段を駆け下りる。私とギルガメッシュ、そして特殊部隊と呼ばれた物々しい様相を呈する彼等もそれに続いた。
最上階は、明らかに異様な空気で満たされていた。──社長室の入り口らしき堅牢な扉が破壊されている。……デッカードとギルガメッシュが頷き合うのを見て、私も覚悟を決める。
この先に──J‐007がいる。私は彼と出会わなければならない。そして、知らなければならない。彼等のことを。彼等の夢見た明日の光を。
「そこまでです、兄さん」
デッカードが先行し、ぼろぼろの入り口を踏み越えて突入する。──そこで、彼は奇妙な言葉を口にした。けれど、彼の言葉が耳に入ってきたのは私が目にした光景を正しく理解した後だった。
そこにいたのは、相変わらずトワイス・H・ピースマンの形をしたタイレル社社長。そしてその人を盾にするようにして彼にナイフを突き立てようとしている──彼。J‐007。……ああ、ギルガメッシュ。今の私に声が出せたなら、私はこう言っていただろう。こんなこともあるのか、と。
垂れ下がる白髪の下から覗く血の色の瞳。顔色の悪い蒼い膚。彼の写真を見た時に覚えた既視感にやっと納得がいった。彼は──髪と目の色こそ違えど、あの月の裏側で虚数空間から救い出してくれた、黒ずくめの友人にそっくりだ。
思わず傍らのギルガメッシュを見上げると、また趣味の悪い歪んだ笑みを張り付けている最中だった。……きっと、彼の写真を見た時からこうなることは予測していたのだろう。息ができないまま再びJ‐007へと視線を戻す。彼は「何故同じ人間が」とよくわからないことを口走った後、はっと何かに気が付いた様子で社長の首元へとナイフを突きつける。機動隊もまたその動きに合わせて銃を構える。極度に緊迫した空気がこの広々とした社長室の室内を覆っていた。
「やめてください、兄さん」
兄さん。何故だかデッカードはJ‐007のことを兄と呼んだ。……そんな筈はない。デッカードは人間で、J‐007はレプリカントだ。血縁関係が生じることなんてないだろうに。同じことを思ったのか、J‐007もまた怪訝な顔つきでデッカードを凝視する。
「生憎だが生まれて三年と十一か月でね。お前のような弟なぞいる筈がない」
「そうですね。わかっています。……ああ、本当に──因果は巡って来るものですね、父さん」
私を背にして立つデッカードの表情をこちらから窺い知ることはできない。けれど珍しく何か迷っているような声音で、彼は一瞬虚空を仰いだ。
「そこまでにしておけよ、雑種」
ギルガメッシュの明朗な声を聞いて漸く詰まっていた息を私は吐き出すことができた。デッカードの前には決して出ないまま、私の隣に立ちながら彼はJ‐007に語りかける。
「どうせ貴様に不都合な真実でも知らされたのだろう? 自棄で命を刈り取ってもそこに愉楽は芽生えん」
「……今すぐ武器を捨てて投降してください。J‐007」
彼の言葉に重ねてデッカードが畳み掛ける。いつの間にか、デッカードは眼前へ銃を構えていた。もしかして、J‐007が武器を捨てた瞬間撃つつもりだろうか。彼だけでなく、特殊部隊である背後の人々も。……それは、見過ごしていいことなのだろうか?
彼が人間として生きるために流れた血はあまりに多い。それを見過ごすことはできない。それでも、彼の思いを知らないまま、この事件を終わらせてしまうのは間違っていると思った。
……わかっている。この感情はただのエゴだ。レプリカントとして判断されながら、それでも人間だと己の魂を叫ぶ私のわがままだ。だけど、そのわがままを張り通さなければ岸波白野は岸波白野としていられない──!
「──くそ、こんなところで止まれるか!」
ギルガメッシュの言う通り自棄になったらしいJ‐007が社長の首をかき切ろうと腕を振り上げた瞬間、銃声と血飛沫が舞う。デッカードの撃った銃弾がJ‐007の腕を掠めていた。その衝撃に耐えられなかったのか、ナイフを取り落とすJ‐007の下へギルガメッシュが飛んだ。──久々に、彼のサーヴァントとしての身体能力を見せつけられる。マスターからの魔力供給は殆どない状態でもこれくらいは可能らしい。人間離れした跳躍でギルガメッシュはJ‐007の背後に回り込み、彼の脳天を蹴り落とす。
「──っ!」
不意のギルガメッシュの反撃にJ‐007も動揺したらしく、社長を抱えていた腕の力が見るからに弱まった。
そのまま彼を取り押さえようとするギルガメッシュだったが、J‐007もまた常人離れした動きで反対に蹴り上げられる。咄嗟に受け身を取っていたので無事だろうが、その隙にJ‐007は社長を離してデッカードと特殊部隊の囲んだ出入り口の方へ駆け出した。
特殊部隊と言いつつ、後ろに社長がいるからか容易に銃を放てない様子の彼等は銃ではなく純粋に力勝負でJ‐007を捕縛しようとする。しかし、懐に隠していたらしい銃を威嚇するようにそこら中に発砲し、その渦に混乱が生じた。その間隙を縫ってJ‐007は風のように社長室を抜けてしまう。
「追ってください!」
デッカードの声に応えるように特殊部隊と共にギルガメッシュが駆け出す。私も距離を離されながらも彼等に続いてJ‐007を追う。彼は迷うことなく私達のやって来た順路を通って屋上へ向かおうとしているようだった。──流石の私も気が付く。彼が何をしようとしているか。
駐車場の一番手前にあったのは、私達の乗ってきた群青色のスピナーだ。……そして、なかなか運の悪いことにエンジンは掛けっぱなしであった。事も無げにJ‐007は助手席のドアを力でこじ開けて、そのまま運転席へと身体をスライドさせてアクセルを踏む。
「撃て、撃てーっ!」
「王の財を横取りか、鼠!」
特殊部隊が再び銃を取ってスピナーを撃ち始めるが、既に上空へと舞い上がり始めたそれは銃弾の何発か喰らったところで止まる気配がない。その横でギルガメッシュが何やら別の意味で激憤している。そのまた隣にいたデッカードは傍の自分の警察車両へ駆け寄り鍵を開けた。
「ギルガメッシュさん、ハクノ! 乗ってください、追います!」
舌打ちをして、ギルガメッシュがデッカードの下へ走るのを見て私も特殊部隊の流れ弾に当たらないよう彼に続いた。二人が一足先に乗り込んだスピナーの後部座席に私が転がり込んで、シートベルトを締めている間にデッカードは勢いよくエンジンをかける。
「GPS起動。ギルガメッシュさんの車両を追ってください!」
デッカードの声に反応してスピナー上部が振動し、カーナビらしきモニターに順路が示される。雨で視界はすこぶる悪いが、彼と私達の距離はまだあまり離れていないらしい。ワイパーと雨粒の隙間に、闇に溶けてしまいそうな群青の車両が全速力で空を駆っているのが見える。
──時間がない。急がなければ。このまま彼を闇の中に葬り去っていい筈がない。
殺伐とした空気で満ちた車内で、私は拳を握りしめながらモニターの示す群青色の点──J‐007を食い入るように見つめていた。
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