ACT.3/エピゴノスは夢を見ず - 8/9

 事が済んだことを確認し、付近のビルの屋上に控えていたダンは身につけていたヘッドホンを外した。膝撃ちの姿勢を解き、L96A1軍用狙撃銃の銃身を下ろす。VIPルームでの会話を傍受していた端末の電源も落とし、アタッシュケースにしまって撤収の準備をする。いずれも遠坂リンが彼へ協力を仰ぐ為に用意したものだった。

 仕事で銃を構えたのは久しぶりだったが、存外自分の腕は鈍っておらず安心する。現役の自分ならばもう僅か、あと五ミリはアトラムへの爪先へ寄せた狙撃ができただろうが、贅沢は言うまい。彼女からの依頼は果たした。次はこちらの番だ。

「最初から見ていたのだろう」

 振り返らないままダンは虚空に向かいふと呟く。地面に広げた端末は片付けたが、狙撃銃は手元に残したままだ。真の目標は初めからここにいた・・・・・・・・・・・・・・。ダンの声に誘われるように、闇から一人の青年の影が形を持った。

 立っていたのは、ヘリワード・グリーンだ。

「君が『エミヤ』だったのか」

 ダンの瞳からは光が失われているが、彼の頑迷な妄執はありありと刻まれている。亡霊のように、けれど亡霊ではあり得ないまでの輪郭を保つダンに対峙して、スーツから深緑のブルゾンに着替えたヘリワード――おそらくこれは偽名なのだろうが――は、何の表情も浮かべないまま返答する。

「その答えはイエスでもあるが、ノーでもある」
「何故、妻を殺した」

 問答無用の姿勢でダンは銃を彼の方へと構え直す。対するヘリワードは丸腰のまま、抵抗する様子を見せない。一見して彼の顔から感情を窺うことはできなかった。だが、先程のリンのような冷酷さは感じられない。失われてしまったものに対する寂寥を思わせる、静かな眼差しだ。

オレ・・と同じで、あの人も舞い上がってたんでしょうね。履歴を消し忘れるなんて、いつもなら絶対にしないへまをした。……だからこんな始末に負えねえ話になっちまった」
「……どういうことだ?」

 今は既に装っていない自分自身ということなのか、ヘリワードは出会った時とは一人称を変えて独りごちた後、静かに告白した。

「オレは、アンヌ・ブラックモアの息子です」

 彼の言葉を耳にした瞬間、ダンの時間は止まる。
 凪いでいた筈の風が吹いた。すっかり白くくたびれた髪がふわりとダンの視界を遮る。その隙間から見えたヘリワードの輪郭に、ノイズが走ったような気がした。じわりと背中に冷たい汗が流れていくのを感じながら、銃身を下ろしてダンは彼を注視する。

「アンヌはあなたと出会う以前、幼馴染みの男性と愛し合っていたそうです。しかし家柄の違いが原因で家族からは猛反対され、色々あって結局彼とは死に別れてしまいました。当時彼女の腹の中にいたオレも、出産後はすぐに養護施設に入れられてそれっきり。どこの施設に入ったかも教えてもらえなかったと聞いています」
「……それは……」

 結婚して三十年程が経った自分の妻についてヘリワードが語ったのは、今まで何一つ彼が耳にしたことのない真実だった。――だが、それも考えてみれば当然のように思えてくる。アンヌは元々ダンの親族が決めた見合い相手だった。結婚する以前の彼女について、彼は詳しく知らない。だから――そういうこともあるのだろう。僅かに残った理性が囁く。今のダンには、アンヌの隠しごとに驚く余裕は最早なかった。

「もちろん、悪気があって隠していたわけじゃない。このスキャンダルが知れたらあなたとの結婚の話も破談になるだろう、という彼女の両親の思惑です。
 両親が死んだ後も言えなかったのは、その勇気が出ないからだと言っていました。……アンヌはあなたを心から愛していた。そこに嘘はないとオレは思っています。何度も夢見るような声でオレに語ってくれましたから。
 彼女の中で、あなたへの愛と幼馴染みへのかつての恋は比較しようのない感情になっていた。だがもしあなたに真実を語り責められたなら、その心を何と表現すればいいのか。あなたと過ごした時間や育んだ愛に偽りがないと、言葉以外に証明する手立てがどうしても見つからない。だからずっと言えないままでいる、と」

(愛しているわ、あなた――)

 ヘリワードの言葉を借りて、記憶の中にあるアンヌの声が再生される。庭に植えたリラの木の下で、花を眺めた後振り返った彼女がダンに笑いかける。その言葉に自分は何と返したのだろう。――きっと「自分もだ」と応えた筈なのに。今は思い出してはいけないような気がして、息が詰まる。

「……それでは、君は……今まで一体、どうしていたのか」

 ややに絞り出されたダンの声に対し、ヘリワードはほんの少しだけ困ったような顔をして笑った。

「おおかたご想像されてる通りです。養護施設を出た後、寝食に困ったオレは便利屋になりました。金を積まれりゃスパイでもハッキングでも、場合によっちゃ殺しもOK、何でもござれってね。コードネームは幾つかありますが、よく使うのは『ロビン・フッド』ですかね。……彼の英雄の名にはとても相応しくない、卑怯な真似ばかりやってますが」

 そう自嘲する彼の表情は、やはり第一印象よりも少し幼く見える。……きっと、ダンが『ロビン・フッド』の名を名乗ると決めた時の彼を幻視したからだろう。

 だけれどそれは傲慢だ。たとえどんなに彼より年を重ねていても、両親の顔を見ることなく育ち、一人きりで生きてきた彼の人生について、ダンが知ったような口を利くことはできない。だが、想像せずにはいられなかった。本当の名も知らない彼を、他人であると割り切ることはどうしてもできなかった。ダンとアンヌの間に子はいない。だからか余計に――目の前に現れた彼を、まるで生き別れた息子のように感じる自分がいた。

「彼女と再会したのは本当に偶然でした。庭師としてお偉いさんのお屋敷に潜り込むこともありましたから、数年前ガーデニングの知識を得る為にアクセスしたデータベースで。……本名を偽名として名乗るのも考えものですね。オレの名前なんて、もう誰にも呼ばれることはないと思ってたんだが」

 彼の証言を得て、ダン一人では理解し得なかった事件の手がかりが意味あるものとして繋がっていく。ダンのほぼ唯一に近い趣味であるガーデニングは、主にアンヌに影響されてのことだ。彼女は庭に植えた花や木々の世話をすることが好きだった。そしてヘリワードの言葉通り、確かに数年前からアンヌは霊子ハッキングを通じ、同好の士との交流をはかっていた。その中で彼と出会っていてもおかしくはない。

「斯くして感動の再会を果たしてしまったオレ達は、秘匿回線を用いて定期的に連絡を取り合いました。その時に使っていた名前が『エミヤ』です。……自戒といいますか、些細な幸福に浸る自分自身への皮肉のつもりだったんですけどね。これが裏目に出ちまった。
 オレはアンヌから再会を切望されていました。会わない方がいいとはわかっていた。今やあの人は女王の懐刀の妻、対してオレはどうしようもない日陰者です。彼女の申し出を何度断ったことか。ですが、彼女は諦めませんでした。『立場の違いをもう言い訳にしたくはない』のだと言って。それでオレ達は一ヶ月前――互いの都合で、あなたとアンヌの結婚記念日の翌日に会うことを決めたんです」

 滔々と事実を詳らかにしていくヘリワードから目を逸らせないままでいると、ふと銃床を握り込んだ己の指先が小刻みに震えていることに気がつく。悪夢から目醒めたばかりの時のように、冷たい汗と動悸が止まらない。
 自分は何か恐ろしい事実を見落としている。……いや。本当は、その事実から意図的に目を背け続けていたのではないか?

「あなたは結婚記念日の前日、消去デリートし切れていなかったアンヌの接続履歴を見てしまった。『会えるのを楽しみにしています』と彼女がオレに宛てた幾つかのメッセージもだ。ここからはオレの憶測も混じった話になりますが……あなたはアンヌに裏切られたと感じたんじゃありませんか?」
「そ……れは」

 空気が酷く冷たい。……本当はそんな筈がない。幾ら標高が高く、夏でも夜は気温が下がるこの国だとしても、ダンは十分に着込んでいる。彼自身の体温が下がっているのだ。

「アンヌを愛していたからこそ、あなたは彼女の裏切りとも思える行動を許せなかった・・・・・・。そして結婚記念日当日――宿泊したノッティンガムのホテルで、あなたは彼女にナイフを突きつけた」

 そうして、最も耳にしたくなかった――受け容れたくなかった真実がヘリワードの口から語られた時、ダンは膝をつき崩れ落ちた。杖のように狙撃銃を抱いたまま、蹲って口元を押さえる彼に対し、ヘリワードは一瞬憐れむような視線を向ける。だが、彼の瞳はすぐに後悔の念に染まった。彼にダンを憐れむ資格などない。そもそもヘリワードがアンヌに関わらなければ、会おうとしなければ、この事件は起きなかったのだから。

「オレは当日、あなた達を尾行していました。本当は少しの間遠くから眺めるだけのつもりだったんですが、あの日のあなたはどこか様子がおかしかった。表面上は取り繕っているが、彼女が席を外している折には妙に思い詰めた表情をしていた。嫌な予感がして、そのまま尾けることにしたんです。
 そして遂にあなたは凶行に及びました。だが、オレが止める前に――アンヌはあなたをナイフごと抱きしめた・・・・・・・・・・

 ――許して、あなた。

 そこで漸く、悪夢の中にしまい込まれていた彼の記憶は正しく再生された。

『何故だ、アンヌ……』

 殆ど心神喪失の状態で、握りしめたナイフを彼女に突きつけながらダンは呻いた。微かな意識が叫んでいる。アンヌが自分に背くわけがない。しかし、目の当たりにした事実を忘れることもできない。何故、何故、何故だ。君にとって私と共に生きたこの長い年月は一体何だったというのか。許せない。自分を裏切ったかのようなアンヌのことも。そんな彼女を信じることができない自分のことも、何もかも許せない。

 不意に自分へナイフを向けたダンを見て、アンヌは目を見開いた。今にも泣き出しそうな顔を見せた後すぐに彼女は瞼を伏せる。それから何かを心に決めたように、顔を上げてゆっくりとダンへ近づいた。

『許して、あなた……』

 そう言ってアンヌは両腕を広げ、ダンを抱きしめる。ナイフは彼女の腹部にゆっくりと刺さっていった。彼女の細い腕とあたたかな息。そして内蔵へと刃が食い込んでいく感触に呑み込まれ、ダンは気が触れそうになった。――いや。既に気は触れていたのかも知れない。彼の正気を判断できる人間はもういない。彼がその手で殺したからだ。

「あ、ああ……あ……」

 目を覆い錯乱するダンへと近づき、ヘリワードは彼へと視線を合わせるように膝をついた。小さくなった彼の肩へ手を伸ばそうとして、迷った末に諦める。ヘリワードにできるのは暗闇の中でもがいていたダンへ真実を伝えることだけ。それ以上は、彼ではなく彼女の領分だ。

「アンヌは、……母は、いつもあなたについて話していました。母の語る物語の中の騎士のようなあんた・・・を、いつもオレは素直に受け入れられなかった。誰もが自分の人生に誇りを持てるわけじゃない。母の懐いた夢のように、もしもオレ達が一緒に暮らしてたなら毎日喧嘩ばかりしてただろうって、いつも肩を竦めてました。……だが、本当は……」

 言いかけた本音を呑み込んで、ヘリワードは再び立ち上がる。その動きにつられて顔を上げたダンへ、彼は目を細めて微笑んだ。

「……もうこの国に用はないでしょう。早くイングランドに帰国してください。アンヌがあなたを待っているでしょうから」
「え……?」

 その言葉を最後に、ヘリワードは踵を返し屋上を後にする。彼の視線は名残惜しげに迂回したが、その後再びダンの方へと向けられることはない。ヘリワードを呼び止めることができないまま、彼の姿が闇に消えていくのをダンはただ呆然と見つめていた。

 それから一体どれくらいの時が経ったのか。プライベート用の端末が振動していることに気がついて、よろよろとダンはポケットに手を入れる。番号を見たところ、どうやら母国の固定電話からかかってきているらしい。

「……はい」
「もしもし、ミスター・ブラックモアですか? 王立ノッティンガム病院の■■ですが」

 端末のロックを解除して何とか応答すると、馴染みのない女性の声が聞こえた。……王立病院? 何故自分のところに、と一向に働かない頭で彼は逡巡する。

「ミズ・ブラックモア……アンヌさんが意識を取り戻されました。この件でなるべく早めに、主治医が一度お話したいと」

 ――その病院がアンヌの搬送先であったことを思い出す一歩手前。電話口で知らされた不意のニュースに力が抜けて、握り込んでいた狙撃銃がダンの手から滑り落ちた。重い鉄の塊がコンクリートの床に転がって、鈍い音が彼の足下に響く。その振動がじわりと全身に伝わっていき――初めてダンの瞳から一粒、涙が溢れた。

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