エレベーターの扉が開いた先、ベルベットの絨毯を踏みしめたアトラム・ガリアスタを待ち受けていたのは、ホテル・ニュームーンの総支配人と数名のホテリエだった。
「ようこそいらっしゃいました。ご案内いたします」
恭しい態度の彼等に導かれ、霊子ハッキングの技術を利用した厳重なセキュリティのドアを幾つも潜り抜けていく。長い廊下の先で堅牢な扉が開かれると、そこに広がっているのはバロック調の部屋――メダリオンの壁紙、天井より吊り下がる豪奢なシャンデリア、装飾鏡や名画が飾られた、所謂VIP専用ルームだ。ここがアフリカであることを忘れそうになる程の壮麗な洋風の内装を見回し、アトラムは早速気をよくする。商売を生業とする者として実利は当然追求する。しかし、実利ばかりを気にする者はどこかみすぼらしい。己の家格に相応しい振る舞いは重要だ。その点、このVIPルームは実によくできている。
「お待ちしておりました、ミスター・ガリアスタ」
室内には、既に何人ものスーツ姿の要人――オークション参加者、もといアトラムの取引相手達が集っていた。当然、その中には西欧財閥配下の人間も混じっている。
「会合の時間を間違えてしまったかな? 僕だけ遅刻してしまったみたいだ」
「いえ、そのようなことは。きっかり時間通りです」
「なら安心したよ。……大事な機会だ。シダモを味わいつつじっくり話すとしよう」
薄い唇の端を吊り上げて、アトラムは用意された猫足のソファ――文字通りの特等席に腰掛ける。すぐに給仕によって提供されたモカコーヒーの苦い香りは、彼の鼻腔をふわりとくすぐった。
アトラムは中東圏で最も有名な、石油産業を生業とするガリアスタ家の長子である。アラビアでは反西欧財閥のレジスタンスの活動が盛んだが、彼が属するカマル連邦は石油資源の採掘権を得る為、財閥主導の組織である北半球資源機構に加盟している。しかし――彼が家督を継いだ昨年末より、ガリアスタ家は窮地に立たされていた。データ分析の結果、あと十年程度で彼の管理する油田は軒並み枯れ果てることが判明したのだ。
資本維持の為、アトラムは幾つかの選択肢より一つの道を選んだ。石油以外の市場参入へと大きく舵を切ったのだ。――クローン製造・売買の為の人身取引である。
元々、アトラムは「生命を殺して生命を生かす」代償魔術の使い手だ。彼の魔術工房には魔力源として生きた人間――身寄りのない子供達の命が用いられている。その燃料調達の為に確保していたルートをクローン製造のネットワークと繋げてやれば、一つのビジネスモデルの完成だ。後はその事実を完璧に隠し通すだけでいい。
2033年現在、クローンの製造や売買は西欧財閥の定めた国際協定404――封印指定において禁止されている。それにも関わらずアフリカで巨大なクローンマーケットが形成されているのは、アフリカ諸国が北半球資源機構に加盟せず、資源採掘権を放棄しているからである。西欧財閥として武力行使をする大義名分が存在しないのだ。
だが逆に言えば――北半球資源機構加盟国で活動するアトラムがクローン製造に関わっていることが明らかになれば、ガリアスタ家、ひいてはカマル連邦は西欧財閥からの報復を受けることとなる。それでも、今のアトラムにとってはこの方法が最も効率のよく、十年単位で通用する生存戦略だった。本当は月の聖杯戦争への参加も検討していたが、彼がハッキングする直前に月へアクセスする回線は閉じられてしまった。
故に。彼にとって、このホテル・ニュームーン――セラサ共和国での取引は絶好のチャンスであった。新しい取引ルートの開拓と共に、話題のオパールビジネスにも参入する。そして規制緩和に乗じ月へのアクセスルートを開通させ、聖杯を得る為の足がかりとする。聖杯を得ることができれば、懸念していた石油資源の枯渇もなくなり、彼の家格にも箔がつく。無論、万が一の時の目眩ましも用意している。ホテル、ひいてはそのバックにつくセラサ共和国の政界は既に買収済み。そしてこの場には北半球資源機構加盟国の、経済界の重鎮達が何人も居合わせている。証拠の隠蔽は容易い。正に、全てはこの手の中だ。
内心アトラムはほくそ笑んでいた。たとえ巡り合わせが悪くとも、自分は本来生まれながらに「与えられた」人間だ。その才能を糧として揃えられるだけ手札は用意した。ロイヤルフラッシュとまではいかずともフルハウスは自負できる。そして自分以上の役を出せる人間はこの場にいない。後はこのままソファに座して、当然のように勝利するだけだ。
「――では、取引成立ということで」
「ええ。今後ともよろしくお願いしますよ」
総支配人立ち会いの下、皆が黒い羽根ペンを契約書に走らせる。アナログな見た目だが、このペンと用紙にも霊子ハッキングの技術が応用されており、容易に改竄できないようにセキュリティが固められている。サインし終えた後、紙に染み込んだ黒インクは契約完了を意味するかのように発光した。
――そこまでは、完全に彼の思惑通りだった。
〈DRING! DRING! DRING! DRING! DRING!〉
突如として、耳を劈くけたたましいベルの音が部屋中に満ちる。
室内にいた者は皆一斉に顔を上げ、一体何事かと辺りを見回した。アトラムも例に漏れず、握っていた羽根ペンを思わず卓の上に転がして立ち上がる。皆が息を呑み声を漏らす前に、ベルの音の上へ被さる形で機械音声がスピーカーより再生された。
『アテンションプリーズ アテンションプリーズ。当館の コンピュータ中枢への 不正アクセスが 発見されました。ファイアウォール 完全突破。浸食率 75パーセントを超過。セキュリティレベル 著しく低下 しています。館内の皆様は 直ちに 避難し――』
アナウンスはそこで途切れた。再びベルが鳴り響き始める。それを合図にして、室内の参加客達は次々に声を上げ始めた。
「おい! 一体どうなってるんだ!」
「火事か!? 爆発か!?」
「落ち着いてください、現在急ぎ確認を――」
「ここは最上階だろう、避難は安全にできるんだろうな!?」
口々に不安がる参加客をホテリエが宥めすかしている横で、通信機で外と連絡を取る総支配人をアトラムは睨む。無論、総支配人に対し突然悪感情を懐いたわけではない。……こんな大事な取引でアクシデントだなんて、僕は運命の女神から煙たがられているのだろうか。さしもの彼でもそう思わずにはいられなかったからだ。二言三言程電話越しに呟いた後、総支配人は通信を切り、険しい顔でそのまますぐにアトラムに耳打ちする。
「地下の商品が脱走しました」
――まさか、あり得ない。そう呟きそうになる口をぐっとこらえて、アトラムは急ぎ考えを巡らす。ホテル・ニュームーンの地下のセキュリティはこのVIPルームと同等の、共和国軍中枢のコンピュータとも良い勝負の堅固さを誇っている。A級ハッカーと呼ばれる魔術師でも、あれを突破できる者は少ないだろう。……だが。それが可能であろうと推測できる者が一人、このホテルには存在する。
そう思い至ったと同時に、天井から何かが小さく爆発するような音がした。ちょうどよく参加者やホテリエ達がいない位置のシャンデリアが派手な音を立てて割れ落ちる。皆が一斉にその上へと視線を集中させた瞬間――黒いゴーグルとライダースーツを身につけた一人の少女が、鮮やかにその場へ降り立った。
――遠坂リンである。
「ごきげんよう、皆さん。自己紹介は必要かしら?」
金色の巻き毛をかき上げて、彼女はハンドガンを手に構える。何が起こったか理解できていない殆どの参加者を尻目に、アトラムはわなわなと震えながら彼女へと指をさした。
「遠坂リン! 何が目的だ!」
動揺を隠せないまま必死に彼女を威圧しようと声を荒らげるアトラムに対し、リンは全く気に留めることなく数秒程度逡巡する。「ま、ここまで来たら教えてあげてもいいか」とゴーグルを額に上げて、彼女はにっこりと女神のように微笑んだ。
「あなた達の密談の様子、ばっちり世界中に生配信させてもらったわ」
「何だって……!?」
彼女がぱちんと指を鳴らすと、壁に掛けられたモニターの電源が突然入る。そこに映し出されていたのは世界最大規模の動画共有サイト・テラチューブのトップ画面と、欧州の巨大匿名掲示板・ピースジャーナルの実況スレッドだった。

彼女の見せた現実――自分達の秘密の会合が全世界に向けて生配信され、既にニュースとして取り上げられている様を目の当たりにして、暫く呆気に取られていた参加者達がどよめく。彼等の顔は示し合わせたかのように真っ青だ。……そして、それは極力平静を失わないように努めていたアトラムも同じだった。
「国際協定404を知らないとは言わせないわよ。クローンの製造や取引は御法度。それでも北半球資源機構に非加盟、かつ資源採掘権を放棄してるなら武力行使はできないのがハーウェイの限界だけれど……見たところ、ここにはあなたを始め北半球資源機構加盟国のお歴々ばかり集っているのね?」
彼等の罪をゆっくりと指でなぞるように語るリンを棒立ちで見つめながら、彼女がしでかした行為のもたらす甚大な被害、それに対し自分がはからねばならない保身の術が、まるで走馬灯のように――アトラムは走馬灯を知らなかったが――脳裏を駆け巡る。だが、次に彼の口をついて出てきたのはとても合理的とはいえない感情だった。
「な……何故だ! 何故お前が僕の邪魔をする!? それも、ハーウェイの手先になるような形で……! 僕はお前達とは対立する立場だが、直接お前達に害は与えていない! お前に邪魔をされる筋合いはない!」
額から汗をだらだらと垂らし、みっともなく鼻白むアトラムを眺めながら、ふと笑顔を潜めてリンは冷ややかに呟く。
「いいえ、確実に被害は出ているわ。中東諸国の子供達の失踪はここ数年で急激に増えている。未来を担う子供達は私達の大切な資産よ。彼等の命を蹂躙するあなたは罪人でしかない。……それに。西欧財閥内部で潰し合ってくれるなら、私としても効率的だし?」
感情の籠もらない、凍てついたサファイアの瞳に射貫かれた彼は一瞬声を失う。……こんな、自分よりずっと年下の小娘に、何故ガリアスタ家の長子ともあろう者が気圧されているのか。リンのヒールで足蹴にされたプライドを握りしめながら、アトラムはなおも食い下がる。
「クローンの密造や人身取引など、今に始まった話ではないだろう! ……これは氷山の一角。クローンマーケットはお前の思っている何倍も広大かつ複雑だ。遠坂リン――お前が幾ら優秀な魔術師だろうと、お前一人の力で根絶できるものじゃない。お前のやっていることはただの偽善だ……!」
もちろん、アトラムの言葉は詭弁に過ぎないと彼女は理解している。追い込まれた彼に出せるカードがこれしかないだけ。けれど、レジスタンスを担う者として――一見すると殆ど勝ち目のない、西欧財閥との戦いに挑み続ける者として。そして、あの時自分の背中を押した「誰か」の心に背くことのないように、私は応えなくてはならない。銃口の先を見据えたまま、リンは言葉を返す。
「……そうね。私一人なら、今ここまでしてあなたを止めてなかったかも知れない。物事には優先順位をつける必要がある。私の正義や信条に反する事象はこの世界に溢れているけれど、その全てへ同時に対応することはできない。私は全知全能の女神ではないもの。でも……これはあの子との約束だから」
「クソ……こうなったら……!」
リンの返答の意味を半分も理解しないまま、激昂したアトラムは懐に手を差し入れる。隠し持っていた鉱石――彼が子供を生贄に生成した護身用の弾をリンに投擲する為だ。
しかし、彼が動いたコンマ一秒後。彼の両足の間の床を、銃弾が撃ち抜いた。
――何が起こったか、彼には理解できなかった。リンはハンドガンを構えたままだが、引き金は引いていない。だというのに、足下のベルベットの絨毯にははっきりと弾痕が刻まれている。右足があと1cmでもずれていたら確実に当たっていた。……そこまで考えて、アトラムはふと思考を止める。
射手は、敢えて1cm外したのではないか。
ベルがけたたましく鳴った時、リンがこの場へ登場した時とは全く別種の恐怖にアトラムは支配される。敵は少女一人ではない。彼女は確実に誰かと手を組んでいる。背筋も凍る程の実力を持つスナイパーが、自分の命を虎視眈々と狙っている。
「自分の立場を理解できたかしら? これは牽制。そこから1cmでも動けばあなた、死ぬわよ」
リンの冷たい声を耳にして、アトラムは懐から手を離しよろよろと崩れ落ちる。それと同時に窓の外から遠く、サイレンが唸るように響き始めた。下の階のホテリエが通報したのだろう。騒ぎを聞きつけた警察の車両が、そろそろホテルへと到着するようだった。
「潮時ね。それじゃあ、ごきげんよう。もう二度と会うことはないでしょうけど――全員潔く裁かれなさい」
くるりと踵を返した後、リンは最後にもう一度アトラム達の方へと振り返ってそう呟く。何も言えないまま呆然と口を開いている彼等へ小さくため息をついた後、彼女は窓枠に手をかけて鮮やかに飛び降りた。その場に残されたのは、宝石が飛び散ったように光り輝く硝子片だけだった。
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