ACT.3/エピゴノスは夢を見ず - 9/9

 栗色の髪を振り乱しながら、一人の少女が地下水路の暗がりを走っている。

 少女はあまり己の体力に自信がない。この半年程、自分なりにトレーニングに励んだつもりだったが、やはり訓練と実践は別物だ。喉から鉄の味が滲むのを我慢しながら、今はひたすら目的地――友人との合流ポイントへと急ぐ。
 地下室に閉じ込められていた子供達は既に開放された。協力者の運転するトラックに乗り込み、今頃母国への帰路を辿っている筈だ。彼等の開放の活路を開いたのは、囮として潜入していた少女だった。と言っても少女に特別な力があったわけではない。優秀なA級ハッカーである友人の提案したプランに合わせ、彼女にできることをしただけだ。

 少女が身を寄せる中東諸国では、身寄りのない子供が人買いに売り飛ばされて行方不明となる事件が急増していた。彼女が交流を持った難民キャンプも被害に遭った。売られた先で、生きたまま解剖された少年がいた。遺体すら残されずに死んだ少女がいた。だがそこまで辿り着けたならまだいい方で、履歴が途切れ、経由した中間地点以降どの国へ渡ったかわからない子供はもっと沢山いた。
 紛争に巻き込まれ、家族を失い、誰にも見つけてもらえないまま命を奪われる子供達。彼等の命を何とも思わないまま資源として消費する人々。そんな地獄が現実に存在していい筈がない。
 人生が希薄な少女にとって、善悪とはしばしば量り難いものだった。何が正しくて何が間違っているかだなんて、個々人の立場によって変わってしまう。そしてその秤の標となるものを、少女自身未だ定められていない。――だが、これだけはわかる。自分の命の使い道を決められるのは自分だけだ。それを資源として他人が使い潰すことは許されない。

 そんな少女の意地に付き合ってくれる友人がいた。そして彼女達を信じる人々がいた。だから、少女は自身の心を貫き通そうと決めた。特別秀でた才も経験もない、ただの凡人にもできることはある筈だ。
 そうして作戦は成功を収めた。だからと言って、もちろんこれで全てが終わりというわけではない。今回の黒幕であるアトラム・ガリアスタ以外にも、人身取引に関わっている人間や組織はまだ多く存在する。この問題を解決できるのは当分先の話だろう。五年、十年、それ以上時間のかかる話かも知れない。……それでも確かに救われる命はあった。私達は、一歩前に進んだのだ。

 合流ポイントまであと僅か。そう思い僅かに気が緩んだ瞬間、ウェアラブル・ウォッチに表示させた地図が複数の生体反応を示す。協力してくれたレジスタンスの構成員達は既にここを脱出している。合流するのは友人一人だけの筈だ。……まさか、と息を呑んで少女は足を止める。

 だが間が悪かった。視線の先の曲がり角から銃口が覗く。反射的に身を屈めると同時に銃声が響いた。弾は靡いた髪の毛の一束を貫き空を切る。急に立ち止まった反動で痛む心臓を押さえながら、少女は暗闇を睨んだ。その視線の先から、幾つかの人影がゆらめき出でる。

「鼠め」

 銃を構えるボディーガード数名に守られながら、吐き捨てるようにそう呟いたのはアトラム・ガリアスタだった。アクセサリーのように、鉱石――護身用に魔力が仕込んであるらしい――を指の間に幾つも挟んでいる。

「……逃げてたの、あなた達」

 あの状況から少女と同じルートを辿って警察の目を逃れるだなんて、ホテル側の手引きがあったとしか思えない。敗残兵にも関わらず不遜な態度を崩さない彼に怯みながらも、少女はハンドガンを構える。……正直、命中精度はかなり低い。こちらも丸腰ではないのだと威嚇はできてもそれだけだ。案の定アトラムは苛立ちを示しつつも、慌てることなくこちらに向かい合っている。

「ここでおとなしく捕まるわけにはいかないからね。使うことはないと思っていたが、万が一の時の逃走ルートは当然確保済みだ。……よくも僕の計画を台無しにしてくれたな」

 アトラムは天井へ向かって鉱石を擲つ。それを合図に護衛達も銃の引き金を引いた。少女もウェアラブル・ウォッチから防御壁を展開し応酬したが、すぐに装甲に銃弾がめり込んで罅が入る。どうやら弾も魔力で強化されているらしい。

「鼠は鼠らしく、ドブの中で無惨に死ね」

 そして鉱石は光の弾となり、少女めがけて放たれた。少女は自分自身のありったけの魔力を防御壁の強化に回したが、彼の魔力量は彼女のそれを上回っている。
 ここで死ぬわけにはいかない。死にたくない。道が定まっていないのは助けた子供達だけではない。少女も彼等と同じだった。全てを失った状態で目を醒まし、身に覚えのない言いがかりで見知らぬ人間達に命を狙われながら、それでも流されるままではいられないと立ち上がることを決めた。それが少女という人間の在り方だった。
 だが、どんなに啖呵を切ったところで、この窮地から抜け出す突破口は見つからない。そんな時に頼りになる友人もここにはいない。……頭の中で考えが堂々巡りする。くそ、どうすればいい、どうしたら――!

 そうして無意識の内に目を瞑り、唇を噛んで痛みに耐えようとした一瞬。彼女の背後から何発かの銃声が聞こえた。

 恐る恐る瞼を開くと、防御壁はまだ展開されていた。青みがかった透明な硝子の先で、アトラムとその護衛達が血を流して倒れている。

「え……」

 何が起こったのか理解できないでいると、不意に背後からふわりと風が吹いた気がした。人の気配を感じ、少女はつい後ろを振り返ってしまう。

 そこにいたのは、生成りのシュマーグを被った背の高い男だった。首に赤いストールを巻いている。地下水路の最低限の光源と被り物のせいで顔立ちはよくわからないが――何故かその姿を見た途端、少女の身体の芯を電流のような衝撃が貫いた。

「先を急ぐぞ」

 男の喉から発された素っ気ない声に聞き覚えはなかった。レジスタンスの構成員の誰かがついてきてくれた、というわけではないらしい。

「……あなたは誰?」

 問いには答えないまま自分を追い越し、走り出した男の背中を少女は追いかけた。……そこで漸く、苦しかった筈の心臓がいつの間にか落ち着いていることに彼女は気がついた。息は上がっているがこの程度なら許容範囲だ。どうやら初めて出会った筈の彼のことを、自分は一瞬で信じてしまったらしい。
 その心の機微は彼女の中でもうまく説明がつかない。きっと世話焼きな友人に話せば、たちまち「お人好しが過ぎる」と咎められてしまうだろう。……それでも少女は迷いなく、男の背を追おうと思った。彼が窮地に陥った自分を助けてくれたのは紛れもない事実だ。こちらへの敵意も感じられない。

「白野……! よかった、無事で」
「リン!」

 合流ポイントに辿り着くと、程なくして友人――遠坂リンが現れた。リンは少女を見て安堵した表情を見せたが、その付近にいた男をみとめるなり血相を変える。

「……やっぱり」

 リンの漏らした呟きに男は応じない。ただ、少女達と一定の距離を保ったまま仁王立ちしている。

「知り合いなの?」

 少女――岸波白野はリンに駆け寄った後、再び男の方へ視線を投げる。リンは白野に応えないまま、複雑な表情で男に問いかけた。

「あの爆発事故では死んでなかったのね。……勝手にあなたとダン・ブラックモアを会わせるって約束しちゃったんだけど、少し時間をもらえない?」

 白野にはリンの話した内容が殆ど理解できなかったが、少なくとも目の前の男が彼女と旧知の仲だということはわかった。きっと白野が眠っていた頃の話なのだろう。男はリンの申し出に対し静かに首を振る。

「不要だ。ダンは私の名を騙る緑の人(だれか)を私だと思い込んでいる。そいつとは既に話をつけてあるし、敢えて私本人が出向く意味はないさ」
「──そう」

 そんな最低限の会話の後、男は無言で赤いストールを翻す。それを見て、自分でも無意識に白野は彼へ声をかけていた。

「あ、あの!」
「……何かね?」

 白野の声を聞いて、男は立ち止まってちらりと彼女の方へ視線を向ける。彼が立ち位置を移動したため、電灯の光が仄かに彼の横顔を照らしていた。シュマーグから覗いたのは褐色の肌と鋼のような銀の双眸だ。――やはり、その顔に見覚えはない。

「……助けてくれてありがとう。あなたが来てくれなかったら、きっと死んでた」

 だが、それだけは言っておきたかった。自分ではどうしようもない窮地を切り抜けて今ここに立っていられるのは、間違いなく彼のおかげだ。

「礼には及ばない。君はここでは死ぬ運命でなかったというだけだろう。……私のことは忘れてくれ」

 返ってきたのは、そんな先程と同じ素っ気ない声。だが、彼の少しだけ緩んだ眦を見て白野はふと胸に灯りが点ったような心地がする。――あたたかい火を、渡されたような。そんな余韻を残して、男は地下の闇に溶けて消えていく。

 それから二度と、彼等が再び相見えることはなかった。

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