それから幾度となく夢を見た。あの、リラの木と妻が倒れるばかりの映画を見せられる酷い悪夢だ。ベッドに入り、瞼を閉じた後ならば仕方がないと諦められる。けれどふとした瞬間、紅茶を飲んで一息ついたとき。ぼうっと窓の外の景色を眺めているときですら、その夢は煙のように己の意識に纏わりついた。そうして我に返ったとき、先程まで自分が何をしていたのか、頭が霞み思い出せない時間が暫く続く。……ホテル・ニュームーンに滞在し始めてからというもの、ダンは如実に夢に蝕まれていった。
これではまずい。まだ調査は終わっていない。「奴」に辿り着く手がかりはあっても、その点と点同士を線で繋げることができていない。オークションまであと三日。それまでに何とか核心に迫ることができなければ――自分は永遠の後悔に苛まれることになる。ダンは彼らしくない焦りを感じていた。
焦りが成功を招くことはない。軍人時代に嫌という程思い知った事実だ。そう思いつつも、彼は必要最低限しか眠らず、喫煙量を増やす道を選んだ。元々ダンは睡眠が短くとも問題のない体質だったし、喫煙所に足を運ぶとそこにはヘリワードがいた。ロスマンズの香りに包まれながら彼の軽薄な言動に耳を貸している間は、不思議と悪夢のことを忘れて平静でいることができた。ダンとは似ても似つかない性格だが、ヘリワードからはどこか懐かしい匂いを感じることができた。……それは彼の振る舞いが少し、戦場で散っていった同志達に似ていたからかも知れない。
「何か、心ここにあらずって感じですね」
ふと、遠くから声が聞こえた気がして顔を上げると、すぐ傍には変わらずヘリワードの姿があった。片手にスマートフォン、もう片方に紙巻き――アメリカンスピリットという銘柄らしい――を持ってこちらを不思議そうに窺っている。
「ミスター・グリーン。わしは……本当にここにいるか?」
ヘリワードの少しだけあどけなく見えた表情に、思わずダンはそう問うた。――それはダンの抱える心的外傷を知らねば理解できない問いであった筈なのに、ヘリワードは一瞬言葉を失った後、神妙な顔つきで返答する。
「……ああ、もちろんだ。あんたはここにいる。亡霊なんかじゃない。今を生きている人間だ」
ヘリワードの返答を耳にして、ダンは全身の力が抜けていくような気がした。彼の言葉をどのように受け止めるべきか、頭ではわかっていても身体が理解を拒んでいるような感覚があった。
「……すまない。少し部屋で休む」
それだけ言い残して、ダンは紙巻きを灰皿に押しつけてよろよろと喫煙所を後にする。ヘリワードの顔をそれ以上窺うことはできなかった。彼の顔を見上げてしまえば、いよいよ自分の抱える悪夢がこの現実を塗り潰してしまう気がした。
エレベーターを降りて、角を曲がった先の自室に向かう。ルームキーを取り出して近づくと、……ドアの隙間から何か紙が覗いているのが見えた。再生紙が使われている。どうやら新聞のようだ。今日の朝刊は既に配られた筈だが、と拾った瞬間、嫌な予感が背中に走る。だが、見なかったふりをするわけにもいかない。そのままドアの下から引き抜く。……それは、タブロイドの切り抜き。ここ一ヶ月でもう何度見たかわからない、ダンの心的外傷に関する新聞記事だった。
【プレイヤード・ロイヤルにて強盗殺人未遂】
昨夜午後九時ごろ、ノッティンガムのホテル[プレイヤード・ロイヤル]から「妻が倒れている」と通報があった。被害者女性(50)は腹部を刺され、救急搬送されたが現在も意識不明の重体。通報した男性(64)は被害者の配偶者であり、喫煙所から部屋へ戻った際に部屋で大きな物音を聞き、急いで中に入ると被害者が倒れているのを発見した。ノッティンガムシャー警察は、室内の様子から強盗殺人未遂とみて捜査している。
――許して、あなた。
無機質なタイプライターで打たれた文字の濁流に呑まれそうになりながら、もう二度と聴くことのできない彼女の声を聴く。
彼女自身が本当にそう言ったのか、それとも自分の妄想から生じた幻覚か、ずっとわからなかった。だがたった今、確信を得た。これは夢ではない。記憶の断片だ。
ああ、そうだ――こんな大切なこと、どうして今まで忘れていたのか。忘れていたのならば、どうして自分はここへ来ることを選んだというのか。……強い吐き気に襲われる。嫌な汗ばかりが耳の後ろを伝っていく。そのまま蹲ってしまえば楽なのだろう。だが、彼の元軍人としての矜持がそれを許さない。目を瞑って意識を手放すこともできない。そうすれば、またあの夢に囚われてしまう。
「ちょっと!」
――ぐるぐると回る視界が、凛とした声に誘われて正しいベクトルへと収束していく。
「……遠坂、リン?」
徐に振り返ると、いつの間にかレジスタンスの少女――遠坂リンがそこにいた。こちらへと駆け寄ってくる。ぎりぎりの均衡を保ちながら彼女の方へと一歩踏み出すと、足こそよろけないものの掌が痙攣しているのがよくわかる。
「何故……君がここに」
「何故って、私の部屋もすぐそこだもの。――これ、必要?」
ダンの尋常ならざる様子に眉を顰めつつも、リンは落ち着き払った顔でタータンチェック柄のハンカチを差し出す。彼は無言でそれを受け取り、壁に背を預けながら額に当てた。じわりと冷たい汗が布に吸収されていくのがわかる。そのまま落ち着かない胸を押さえて深く息を吸うと、少しだけ動悸が和らいでいくような気がした。
「……すまない。わしも随分と耄碌したものだ」
自分は既に年老いた。頭ではわかっていた。だからこそ一線を退いたのだ。けれど心のどこかでは「自分は以前とそう変わらない」「鋼の精神と身体を持つ軍人なのだ」という奢りがあったのかも知れない。リンは暫くの間彼を見つめると、急にダンの手首を掴んだ。そのままぐいと自分の方へと軽く引っ張り、彼女はダンを見上げる。
「顔色が悪いわ。ちょっと来て」
そのままリンの元来た方へと引っ張られて、ダンは反射的に彼女を制止した。「どこへ行く?」そう訊ねると、リンはあっけらかんとした様子で返答する。
「私の部屋。落ち着くまで暫く休んだ方がいいわ。紅茶くらいは出すから」
「君の……?」
あまり頭が回らない今のダンでも、彼女の提案は不可思議だった。互いに敵同士ではないとはいえ、友好的に接する相手でもない。ダンからリンに対する悪感情はなけれども、リンからダンに対するそれは初めて相見えたあのホールでの一件でよくわかった。そんな彼女が自ら彼を部屋へと誘うなど、本来あり得まい。そんな彼の真意をすぐに汲み取って、リンはため息をつく。
「今のあなたは女王の犬じゃないんでしょう。イングランドに対してはともかくとして、あなたに個人的な恨みはないし、危害を加えたりなんかしない。今あなたが弱っている状態なら尚更フェアじゃないし。これは……そうね。ただの心の贅肉みたいなもの」
そう言って再び彼女はダンの手首を掴み、歩き始める。ダンは彼女のその小さくもぴんと意思の張り詰めた背中を見つめながら、今度は黙って彼女の後ろを歩くことにした。
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