ACT.3/エピゴノスは夢を見ず - 2/9

 いつの間にか、部屋の呼び鈴が鳴っていた。

 ベッドから身を起こし、ドアホンのスイッチをつける。扉の向こう側にいたのは昨夜のチェックイン時も応対してくれたネグロイドの給仕だった。流暢な英語で朝食を持って参りましたが、と窺う彼女に「すまないがドアの前に置いておいてくれ」と返答し、手近なタオルで額や首を拭う。

 全身にびっしょりと汗をかいている。……何と無様なのだろう。男には元軍人としての矜持があった。どんな苦境に追い込まれようと、任務遂行の為ならば鋼鉄の精神で前進する。それが軍人時代の彼だった。たとえこの身体が年老いても、その有様は変わらない。そう信じていたが――人間である以上、変化しないものはないということか。ため息もつけないまま、男はバスルームの明かりを点ける。

 シャワーを浴びた後、冷め切った朝食を口に運びながら、彼は見慣れない外の景色を窓越しに眺めた。今朝も強い日差しが乾いた空気と土を照らしている。とは言えこの付近は母国に比べればずっと赤道に近いが、標高が高い為に蒸し暑さとは無縁の過ごしやすい気候だ。ありがたい、と素直にそう思う。軍人であった頃は何度も劣悪な環境に身を置いたし、今でも目的を果たす為ならば行動を惜しむことはない。だが今の自分は、全盛期とは比べられない程に弱り切っている。悪い夢に囚われており、その精神的不調が身体にも少なからず影響を及ぼしている。無理は禁物だ。……それでも最早、彼に失敗は許されていない。誰よりも自分自身がそれを許さない。

 朝食を摂り終えた後、トレーの傍に添えてあった新聞を手に取り日付を確認する。件のオークションまであと一週間。それまでに「奴」を見つけ出せるだろうか。……いや、必ず見つけ出さなくてはならない。話は既に「できるか、できないか」を論じる段階にないのだ。

 自室は禁煙のため、エレベーターを降りてロビー付近に設けられた喫煙ルームへ向かう。硝子張りのスペース内には誰もいない。今時珍しいスライド式のドアに手をかけながら、ワイシャツの胸ポケットからシガレットケースを取り出す。

 若い頃は喫煙者でなかった彼だが、ここ十年程は喫煙が毎日の精神安定のための儀式と化していた。と言っても煙草に拘る意味は本来あまりない。戦場で散っていった同志達が当時よく吸っていたのを思い出し、今更真似をしているだけだ。酒のように摂取後の判断がぶれる副作用もない、手軽な嗜好品だと思う。2033年現在、煙草はリキッドや加熱式が主流だったが――そもそも世界中に禁煙運動の波が押し寄せているため、喫煙者の数は激減している――それではどうも吸った気分にならないという理由で、男はわざわざ紙巻きを購入していた。

 ロスマンズの独特な苦みを味わいながら、利用客やスタッフが出入りするロビーを硝子越しに観察する。そのうち、徐にこちらへ向かって歩いてくる男性客が一人。三十を過ぎたか過ぎていないかくらいの、赤毛の優男だ。スーツを着ているので観光目的ではないのだろうが、会社員のようにも見えないのは髪の長さのせいだろうか。優男は片手で持った携帯端末を確認しながら、喫煙ルームのドアをスライドさせて中へと入ってくる。

 優男は先に吸っていた彼の方へちらりとヘイゼル色の視線を遣った後、またすぐに手元の画面へ視線を落とし、程なくして胸ポケットに端末をしまう。入れ替わりに取り出したのは、ボックスタイプの紙巻き煙草と銅メッキのジッポだ。この世代の若者がリキッドを吸わないのは珍しい、と思いながら男は二本目のロスマンズに火をつける。

「……ありゃ」

 そんな、独り言とも言えないような声がぼそりと優男から漏れ出た。再び男が彼へちらりと視線を遣ると、彼が擦るジッポは一向に火を灯そうとしていない。

「すいませんが、ちょいと火を貸してくれませんかね」

 視線に気がついたのか、彼はすぐに男の方へと振り向いて苦笑いを浮かべた。男は徐にシガレットケースに手を伸ばし、鋼色のジッポを取り出して彼に差し出す。

「……これでいいかね?」
「どうも。時々やらかすんですよねえ、オイル切れ」

 優男は肩を竦めながらスマートな所作で紙巻きに火をつける。軽く頭を下げつつ返却されたジッポを受け取り、男は再び手持ちの煙草に口をつけた。

「旦那もオークション参加者でしょう? イングランドからはるばるご苦労様です」

 そのままフェードアウトするかと思われた会話を、優男が自然に繋げる。彼からの問いかけを耳にして、煙草を口につけようとしていた手が一瞬止まった。

「何故わしの出身を?」
「そりゃあ旦那のわかりやすいクイーンズ・アクセントを聞いてりゃ誰だってわかるさ。実はあたしも故郷はイングランドでねえ。まあ、旦那の足下にも及ばない労働者階級の出ですが」

 言われてみれば、彼の話すコックニーはわかりやすすぎていっそ鼻につくくらいだ。それとは裏腹に、優男の持つ紙巻きから香る煙はすっきりとしているが。

「ガキの頃は苦労しましたが、今はそこそこ縁に恵まれて食っていけてますよ。しかし旦那は商人って面じゃねえなあ。どうしてこのオークションに?」

 ただの気安い世間話として投げかけられたその問いかけに返答するのを、男は一瞬躊躇した。当然、訊ねられれば答えられるよう模範解答は用意している。だというのに言葉に詰まったのは、この会話の流れがあまりにも自然で身構えることができなかったからだ。

「わしは……行けなくなった友人の代わりに、席を用意してもらっただけの素人だよ。その口ぶりからすると、君は宝石商かね」
「ご名答。あたしはアフリカ北部周辺で宝石の買い付けをしているヘリワード・グリーンと申します。以後お見知りおきを」

 ヘリワードと名乗った優男は、灰皿に煙草を押しつけた後胸ポケットのカードケースから名刺を取り出して恭しく差し出す。男もまた煙草を吸うのをやめ、目の前の名刺を受け取った。

「よろしく、ミスター・グリーン。わしの名はダン・ブラックモアだ」

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