Ⅴ 俺達に天国はない - 5/5

J‐007とギルガメッシュの対峙を、息もできぬままただ見つめる。

一刻も早く屋上へと戻らなければならない。だが、少しでも動けば向こうから銃弾が跳んでくる。どちらかが動き出さない限り、私も走り出すことができなかった。ただじっと彼等の様子を窺う。

……ギルガメッシュは、J‐007に先手を取らせる気らしい。また慢心じゃないだろうな、と少しだけ不安になったが、彼の思いとしてはこれは慢心ではなく王の寛大な心の類と見た。戦闘に随分と長けているJ‐007だが、彼の身体が瓦解寸前であるのは私の目にも明らかだ。

仕掛けてこない彼に痺れを切らしたか、J‐007がコートのポケットからナイフを取り出すのを垣間見る。攻撃を仕掛けてくるのを見計らってギルガメッシュは銃を構える。──ジグザグにJ‐007が走り始めるのを迎え撃つように彼は発砲を始め、私は階段の方へ駆け出した。

何度か銃を鳴らした後、ギルガメッシュとJ‐007の戦闘が始まったのを垣間見て私は踊り場の壁に背中を張り付ける。ここからだと彼等の動きが視界を掠める程度だが、もっとよく見ようとするとおそらくJ‐007からの銃弾が飛んでくる。ナイフだって投げられるかも知れない。電脳世界ではそれもコードキャストやギルガメッシュの武器で防げるが、この場では身を隠す以外どうしようもない。

これまでの戦い方を鑑みると、おそらくJ‐007は接近戦に長けている。また、背の高いギルガメッシュと比べると小柄で小回りの利く彼は今の狭い場所での戦闘の方が長所を活かしやすいはずだ。ギルガメッシュは彼をうまく屋上まで誘い込めるのだろうか。

「はっ、貴様なかなかうまくやるではないか」
「──お前は人間か? 俺の動きについてこれた奴は、同じ6型でも僅かだ」
「この世界の雑種と一緒にするな。我は裁定者だ。だが貴様の命を裁くつもりはない。貴様を見極めるのはあくまで我が契約者の星の瞳よ」

ギルガメッシュの朗々とした声は狭い廊下によく反響する。彼の言葉は、私への確かな信頼を基に発されている。だからこそ、私の心もまた燃え立った。

「お前達に見極められる義理も道理も、こちらにはない」
「ふん。そう言いながらもあの娘に目を奪われたのは何故だ? 貴様、疾うに理解していよう」
「……気に食わない男だ。だが、それ以上にあいつの方が気に食わない」

どうやら二人の戦闘は格闘戦のフェーズに移行したようだった。腕や脚の骨と骨がぶつかり合って鈍く音が鳴っている。その中で──J‐007は、確かに壁越しの私を睨みつけた、気がした。瞬間ぞわりと背の産毛の粟立つ感覚が私を貫く。

「我との戦闘中によそ見とは良い度胸だな。我が契約者と逢い引きを望むか」

軽口を叩くギルガメッシュに答えないまま、J‐007は一旦彼から距離を取ったらしい。視界にギルガメッシュが入る。裁定する気はないと言いながらも、彼はそのルビーの双眸でJ‐007を試す気満々のようだった。

「……初めて見た瞬間から気に入らなかった。この俺を笑いに来たのか。ただ生まれた時から魂があるというだけで、尊い存在であるお前が」

どうやらJ‐007は私を「人間」だと思っているらしい。それが無性に気になって、思わず踊り場からギルガメッシュの隣まで駆け寄る。「な──たわけ!」とギルガメッシュがすぐ隣で怒る声が聞こえるが、今は気にしている場合じゃない。少し離れたところで変わらず怪我をした腕へ爪を立てているJ‐007は、呪わしい形相で私へ憎しみに近い感情を向けている。

ああ──そんなところすら、彼に似ていて。けれどあなたは、絶対に彼ではない。

「──笑うわけない。あなたの生はあなただけのもの。それは他人が貶せるものでも、背負えるものでもない。私はただ、知りたかっただけ。あなたの歩んできた物語を」

その言葉に、J‐007の動きが僅かに止まった。その隙を突いてギルガメッシュが走り出し、彼に距離を詰めていく。彼は咄嗟に受け身を取ったがそれも間に合わない。ギルガメッシュの蹴りが顎に入り、J‐007は剥き出しのコンクリートの床に倒れ込んだ。

「クソッ」

ギルガメッシュが向けた銃口はしかして彼には当たらない。超人的な速さで彼は脚に撃ち込まれかけた銃を回避し、逆にギルガメッシュへ足を蹴り上げて起き上がる。そのままJ‐007は廊下の先へと跳躍し、開いていた窓へと足をかけた。

「! 奴め、隣のビルへ飛び移る気か!」

ギルガメッシュの言った通りJ‐007はこのビルよりも少し背の低い隣の建物へと跳んだ。「追うぞ!」と急かす彼に飛び乗り、私達も彼の下へ急ぐ。

土砂降りの暗闇の中で佇むJ‐007のイラスト

土砂降りの暗闇の中、身に纏った黒いコートの上にJ‐007の白い髪と膚だけが浮かび上がっている。そのまま彼をめがけてギルガメッシュが跳躍すると、身構えた彼は少しだけ後退る。彼が着地した後すぐに飛び退くと──その一瞬の隙を突いて、J‐007はギルガメッシュの肩に拳を叩きこんだ。

「がっ……!」
「ギル!」

久々に聞いた彼の呻き声に慄いて反射的に彼に駆け寄りかけるが、ぐっと堪える。私が近くに行ったところで今は足手まといになるだけだ。むしろ今のは私が彼に掴まって移動しなければならなかったが故の負傷だ。……悔しさと申し訳なさでかき乱される心を何とか平らかにして、私はJ‐007へと向き直る。

「……もう一度言う。私は知りたい。あなた達のことを。あなた達の望む明日を」
「知りたいだと……?」

J‐007は幽鬼のようにゆらりとこちらへ体を向けた。すると、彼は逃げる間もなくこちらへ走り私の胸元に掴みかかる。

「お前達にはわからないだろう……! 俺が──いや、あいつが受けてきた堪え難い屈辱を!」

彼の手に得物はない。……無論、そう見えるだけだ。ナイフも銃も捨ててはいまい。いつ切り裂かれるか、それとも撃ち抜かれるかの違いしか存在しない。

「お前達は何故俺達を殺そうとする? 何故、もうすぐ命が尽きてしまうだけの俺達を蔑む?」
「それは……」

J‐007の凄まじい気迫に圧されて、思うように声が出せない。……しまったな。覚悟なんてとっくにできていたと思っていたのに。

いや、もちろん覚悟は決まっている。ただ、その覚悟が彼の抱く炎に見合うものなのか、一瞬だけ迷ってしまっただけ。

「俺は別に構わない──俺だけの話であったなら。だが──あいつを、あいつの魂をないものとするこの世界は絶対に間違っている。Kは……今を生きる人間だ!」

だって彼の双眸の炎を燃やしているのは憎悪ではなく、きっと愛だ。自分達を蔑む人間を憎んでいるのではなく、彼等に蔑まれているレプリカント──K‐404を、彼は愛している。かけがえのない一人の友人として、一等大切に思っているのだ。

あなたのその魂の叫びは、否定できない。こんな純粋な願いが、間違いであってはならない。

「どけ!」

立ち上がったギルガメッシュが無事な方の肩で突進し、J‐007を私から引き剥がす。すかさずJ‐007が反撃体勢に入ると、彼は彼の身体に足を蹴り込む。彼の邪魔にならない程度に距離を取り、私はJ‐007に向かって叫んだ。

「──あなたは人間だ!」

その瞬間、J‐007の動きが止まった。合わせてギルガメッシュも動きを止め、私ににやりと目配せをする。こちらへ背を向けるようにして戦っていたJ‐007が、徐に私の方へ顔を逸らす。その眼の炎は未だ煌々と盛っているが、怒りに近い衝動は少しばかり薄れている。

「……それに、あなたと一緒にいた彼もきっと。私には違いなんてわからない。私も、この世界では人間じゃないみたいだから」
「な──」

彼の顔に困惑が走る。無理もない。ブレードランナーである私がレプリカントだなんて、そんなことが罷り通るものか。ギルガメッシュは止まった彼の動きに合わせ、構えは解いていないものの攻撃は止めている。──貴様の言葉で伝えてやれ。彼の浮かべた表情はそう言っているように見えた。

「けど──私も人間よ! だって、こんなにも生きていたい!」

降りしきる雨の音に負けぬよう私は叫ぶ。これが私の命の限り。譲れない光の証明。前へと進むために押しのけてきた人達から受け取った答え。

はっと気が付いたように、J‐007がギルガメッシュへ反撃を開始する。けれど彼の視線は私の方へ釘付けになっている。……それで、いい。それが私達の最後の作戦だった。

「私達は間違っているのかも知れない。あなたはたくさんの人を殺した。私だって生きるために他人の命を奪った。今だって奪おうとしてる。でもこの思いは……生きるために前へ手を伸ばすことは、間違いなんかじゃない!」

叫びながら私は、ずぶ濡れの屋上を走り抜ける。途中J‐007もギルガメッシュを振り払い、私の方へ勢いをつけて向かってくる。追い付かれるのは時間の問題だった。何度もこけそうになったけれど、気合いと根性だけで何とか踏みとどまって縁へと辿り着く。

「ギルガメッシュ!」

J‐007の後ろについていた彼を呼ぶ。それだけで彼は理解したらしく、「では遠慮なくもらうぞ、マスター!」と凄絶な笑みを浮かべた。……その瞬間。彼の背後から、黄金の蔵へと通じる渦が生じる。

──力がみるみる抜けていく。蔵にしまっておいた魔術結晶の塊も使ってこれか。マナの枯渇している世界で、マスターとしての力を使うのは思っていた何倍も厳しいようだ。けれどここで倒れてはいられない。

「天の鎖よ──!」

ギルガメッシュが蔵から射出したのは、彼の友の名を冠した鎖だった。J‐007の両手両足を雁字搦めにして、その鎖は動きを止める。神性を持たない者にとってこれはただの鎖に過ぎない。けれど彼を殺さぬまま足止めするには、これを使うのが一番安全だと思ったのだ。

体力が根こそぎギルガメッシュに吸い取られていく。立っているのがやっとだ。だがそんなことに構っていられる程、私に余裕は残されていない。

答えは出た。──だが、その通りに行動してしまえば私達の旅は終わる。

徐に、コートの中にしまっておいた銃を取り出す。構えた手の先がぶるぶると震えているのは力が残っていないからではない。自分の信念を曲げて、一つの魂を今にも奪おうとしている私自身への怒り、失望、恐怖、……全部ごちゃ混ぜになった何かのせいだ。

「もう一度……言う。あなた達は、人間だ」

引き金に指をかけてみる。……けれど、それを後ろへ引くことはどうしてもできない。J‐007の瞳の炎は、この雨中にあっても消えることなく私をまっすぐ捉えていた。──この命の火は、私の火でもあった。

「あなた達の……私達の魂は……それでも、今を生きて……」

魔力量が限界を迎えたのか、天の鎖が金砂のようにふわりと舞って消えてゆく。それと同時に、私も手に持っていた銃を取り落として──ああ、意識が──身体が、落下していく。

「白野!」

スローモーションのように景色が暗転した。遠くからギルガメッシュの呼び声を聞く。……ああ、間に合わない。ばかだな、倒れるなら前に倒れればよかった。屋上の縁で後ろに倒れるなんて──

そうして瞼を閉じかけた瞬間、私の手は誰かに握られていた。──ギル? 流石にあのリーチでは、彼でも間に合わない筈なのに。

不思議に思ってゆっくり目を開くと、──J‐007が、私の掌を掴んでいた。嘘、と声を出す力もなく私は彼に引っ張り上げられ、屋上の床にぺたりと腰をつける。

「……ここまでか」

立ち上がる余力がないまま、J‐007を見上げていると彼もまた床へと座り込んだ。煌々と燃えていた瞳の焔も今は穏やかな燐光に近い。そうして彼の掌をぼんやりと見つめる。彼の指先は既に壊死しかけていた。

どこからか、サイレンの音が鳴り響いている。ふと空を見上げると、都市の中心部の方からスピナーのライトが目に入る。「デッカードであろう」と、少し離れた場所で肩を押さえながら立っていたギルガメッシュが呟いた。

暫くしてスピナーはこの屋上に停まり、中から彼の言った通りデッカードが降りてくる。そのまま近付いてくるのではなく、彼は後部座席から一人の人間を担ぎ上げた。

その人物は──きっと、K‐404だった。茶色い髪をした、私と同じく何の変哲もなさそうな少年だ。彼は眠っている。死んでいるのかも知れないが、私には区別がつかない。

「K……」

消え入りそうな声でJ‐007が彼の名を呼ぶ。デッカードは沈黙を決め込んだまま彼の傍らまで近寄り、K‐404を引き渡す。すると、彼は瞼を開けてJ‐007を見つめた。

「──ああ。ありがとう。やっぱりJは、俺の最高の友人だったんだ」
「K……違う。俺はお前に明日を見せてやることができなかった」
「……いいんだ」

泣いているのか、それとも雨粒が頬を伝っているのかわからない様子のJ‐007に首を振ってK‐404は微笑んだ。

「ううん。そりゃあ旅ができなかったのは悔しいけどさ……名前も、お互いちゃんとつけられなかったし。でも、俺はお前が……俺のために手を伸ばしてくれただけで、生きた意味があったよ」

そうしてK‐404は再び瞼を閉じた。J‐007は、彼の手を握りしめて一度俯いた後、再び私へと視線を向ける。その表情は先程の戦闘からは想像できない程に静かだ。

「俺達には天国も地獄もない。だからこの現実で生きるだけだと、そう思っていた。それは今も変わらない。だが──」

そこで言い澱み、そのまま沈黙してしまったJ‐007の次の句を私は辛抱強く待つ。……K‐404がいなくなった今、もう彼の声を聞ける者は私だけだ。

「……満天の瞳」
「え……?」
「お前を見ていると苛立つ理由がわかった。お前の目は……Kにそっくりだ」

そう言って彼は──きっとK‐404だけに見せていたのであろう笑顔を私に向ける。眦が下がり、眉間に寄っていた皺がなくなっただけなのに、その顔はこの夜の雨の中随分と光り輝いて見えて──私は突然、涙が止まらなくなってしまった。いつの間にか雨足は弱まっている。そこに遠雷の響きが微かに混ざって、フラッシュを焚いたような強い光が途切れ途切れに続く。

「この四年、信じがたい光景を様々目にしてきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船やタンホイザー・ゲートのオーロラ──それでも一番信じがたかったのは。K……あいつと俺が友人になれたことだ」

Jは私から目を逸らして、天を見上げる。片手はKの頭に置いたまま、もう片方は黒い雲しかない空へと手を伸ばして。

「その思い出もやがて消える。涙のように、雨のように」

そう呟いた後、ふっと糸の切れた人形のように、Jの手が頽れる。かくんと前へ倒れた頭はもう二度と上がらない。私だけではない。この場にいる全員が、きっとそれを正しく理解していた。

雨は、変わらず降り続いている。
全てを濯ぐように。
──全てを、なかったことにするかのように。

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