夏、それも8月というのは特別な季節だと思う。
強くコントラストの効いた空と、一層青々と茂る野草。陽炎を作り出す程の熱気と、残響する蝉の声。どこもかしこも生命力に満ち満ちているというのに、わたしはこの8月という季節に死臭を嗅ぎ取ってしまう。夏は生と死が表裏一体だ。強い光が当たれば、その隣には必ず濃く影の落ちる場所が生まれるように。
このイメージが自分に定着している理由はやはり、わたしが広島で生まれ育っているからなのだろう。物心ついた折から、わたしの夏は平和教育と隣り合わせだった。小学校は毎年8月6日が登校日で、原爆をテーマにした朗読劇をしたり歌を歌ったりした。中学校の夏休みには、平和祈念公園へ行ってレポートを提出する宿題が課されていた。修学旅行の行き先は長崎だし、高校は沖縄だった。沖縄に行ったのは秋口だったし、年間を通して平和学習の機会自体はあったけれど、それでも印象的な記憶はどれも湿った熱と共にわたしの中へ残っている。
大学進学で上京し、戦争について学ぶ機会はめっきり減ってしまった。だけど、戦争について考える必要性・戦争を過去のものとして忘れてはならないという意識は上京前よりも強まったように思う。ここには広島へ原爆が投下された日にちや時刻を知らない人が多くいて、広島にいた頃よりも意識的に考える機会を持とうとしないと、わたしまで地元で学んだことを忘れてしまいそうになるからだ。
もちろん無知であることを酷いとか、不勉強だと非難するつもりはない。むしろ非難してしまう方が危うい、とわたしは思う。
大学生のとき、自分と同じく上京していた高校の同級生がこんな呟きをしていたことを覚えている。
「(原爆の恐ろしさは)所詮広島以外の人にはわからない」
「うちらにとっては家族の話でも、広島以外の人にとっては他人事だし」
彼女の呟きの意図は、わからなくもない。県外、それも東京の方まで出てしまうと、どうしても人々の無知無関心に辟易する場面が増える。それでも、こういった内と外を安易に分けるような考えに、わたしは賛同できない。
わたしが上京後に出会って最も衝撃を受けた漫画が、今日マチ子の『cocoon』をはじめとする少女と戦争をテーマにしたシリーズだ。今日マチ子の描く少女は皆どこにでもいる無力な少女なのだが、それぞれ想像力で武装している間はある意味無敵だ。『cocoon』サンは親友マユにかけられたおまじないが、『アノネ、』花子は自分だけの日記が、『ぱらいそ』ユーカリは友人ミルラから盗んだ白の絵の具がその象徴となっている。彼女達にとって、想像力を諦めるということは、死と同義だ。実際に『cocoon』では自分自身の夢を失った少女から先に死んでいく。『アノネ、』や『ぱらいそ』においても同様の法則が適用されている。
今日マチ子の作品を読んで思うのは、今現実にこうして生きているわたし達にとっても、想像力こそが現実に立ち向かう最たる武器なのではないかということだ。そもそも想像しなければ、わたし達はサン達の物語を見届けることができない。フィクションである彼女達の人生を、ただの作り話としか捉えられない。たとえノンフィクションであっても、他人事として受け取ってしまう。あの時同級生が否定したように。
だから、(これは戦争というテーマに限らずではあるが)わたしは想像することを忘れないでいたいなと思う。想像することから逃げないでいたいなと思う。想像した先に待っているものが楽しいことばかりではないとしても。








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